音知の部屋

 「音痴」ではありません「音知」です。

われわれの楽団での演奏に、ちょっとだけ役に立つ音楽の話を綴っています。

 

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58の部屋

カレリア組曲

 

ジャン・シベリウス18651957年)

フィンランド南部の小都市(と言っても県庁所在地)に生まれ、9歳でピアノ、15歳の時からバイオリンを

習います。フィンランド最古の国立ヘルシンキ大学・法学部に入学しますが、すぐに退学。音楽を学ぶために

ヘルシンキ音楽院(に入学します。2年後、奨学金を得て、ベルリンやウィーンで作曲法や器楽法を習得。1892年に帰国し、母校で教鞭をとりました。

1899年に作曲した交響詩「フィンランディア」が国民賛歌に選定され、フィンランド政府はその功を

賞して終生年金を贈りました。さらに、92歳の(当時としては)高齢で他界すると、国葬の礼を尽くして

葬送しました。

彼の作品には、7つの交響曲のほか、「タピオラ」などの交響詩や「レミンカイネン(トゥオネラの白鳥)」等

の組曲、バイオリン協奏曲などがあります。

 

 

 

      ※フィンランド唯一の音楽大学。1939に「シベリウス音楽院」に改称されました。

  

カレリア組曲

シベリウスが28歳の1893年の作品。フィンランド南東部のカレリア地方にある港湾都市ヴィボルグ

(現在はロシア領)で開催された野外劇のための付随音楽に基づく組曲です。

劇は愛国心を高揚させるためのもので、カレリア地方の1319世紀の歴史を題材として描かれたものでした。

付随音楽としての「カレリア」は、「序曲」、「7つのシーン」、そして終曲の「フィンランド国歌」の

9曲から構成されていました。後に、その中から次の3曲を抜粋して、演奏会用に再構成されたのが

「カレリア組曲」です。

 

1曲『間奏曲』  第2曲『バラード』  第3曲『行進曲風に』

 

カレリア地方

 『地理』

フィンランド南東部からロシアの北西部に跨る広大な地域で、森林が広がり、多数の湖が点在する

ヨーロッパ最大の湖水地帯です。カレリアはフィンランド人にとって精神的な故郷とも言われ、独自の

文化・伝統を有しています。

 

 『歴史』

中世以降、現在のフィンランドとその周辺は、スウェーデンとロシアの間で争奪戦が展開された場所でした。1155 から 1809の間、フィンランドはスウェーデンの支配下でした。1809年からは、ロシア帝国領内の

大公国(フィンランド大公国)とされました。1871年にドイツが統一すると、ロシアにとって地政学的に

重要な位置にあることから、フィンランドの「ロシア化」が始まり、次第に自治権が剝奪されていきました。

 

1917年にロシア革命が起こると、その混乱に乗じてフィンランドは独立を宣言します。

しかし1939年、第二次世界大戦の最中、ソ連軍がフィンランドに侵攻します。フィンランドは果敢に抗戦

しましたが、形勢不利で講和を決断。1940年に締結された「モスクワ講和条約」で、国土の1割に及ぶ

東部カレリア地方をソ連に割譲することになります。

 

これがきっかけで、フィンランドはドイツに接近し、援助を受けるようになります。1941年、ドイツと

交戦していたソ連は、フィンランド国内を爆撃します。このため、フィンランドとソ連の戦争が再開

されます。フィンランドは善戦してカレリアの旧領土を奪回しますが、その後は膠着状態となり、

1944年に休戦協定が結ばれました。1947年の「パリ講和条約」で(枢軸国側として)フィンランドは

ソ連による東部カレリア地方の領有を認め、現在のフィ ンランドとロシア連邦の間の国境線となりました。

これによって、カレリアの野外劇が行われた都市「ヴィボルグ」もロシア領となりました。東カレリアに

住んでいた約40万のフィンランド人(カレリア人)の多くは本国に避難し、その跡にはロシア人や

ベラルーシ人などが入植しました。東カレリアの国名は「カレリア自治ソビエト社会主義共和国」となり、

1991年のソビエト連邦の崩壊後は「カレリア共和国」と称しています。

 

今年(2023年)4月にフィンランドがNATOに加盟しましたが、背景には上記のような歴史的経緯が

あるわけです。

 

 

 

57の部屋

ジャズ組曲第2番から「セカンド・ワルツ」

 

退廃的な優雅さと物悲しさ、可愛さが混在し、歌謡曲のようにも、サーカスの曲のようにも聴こえる

メロディ。加えて、「ジャズ組曲」という曲名に漂う違和感など、なんとも面妖な曲です。

 

ショスタコーヴィチ19061975年)

1906年、サンクト・ペテルブルグ()生まれ。ペトログラード音楽学校に入学し、1926年、19歳の時に

作曲した「交響曲第1番」は、レニングラード・フィルによって初演されました。初演は大成功で、世界の

注目するところとなりました。以後、20世紀を代表する作曲家という評価を得ていきます。作品には、

1番から第15番までの交響曲、バイオリン協奏曲、弦楽四重奏曲、オラトリオ、映画音楽などがあります。

 

1924年~1991年の間は「レニングラード」と改称されていました。

 

ショスタコーヴィチの音楽を理解するには、ソビエト政府による芸術表現への政治的な介入の歴史を知って

おく必要があります。

「セカンド・ワルツ」が作曲される頃までのロシア(ソ連)に関する出来事は次の通りです。

「戦争の世紀」と言われる20世紀の前半、帝政ロシアが崩壊して、最初の社会主義国家が出来ていった

時代です。

 

『高校・世界史のおさらい』

1905年:「血の日曜日事件」 ロシア第一革命

191418年:第一次世界大戦

1917年:ロシア革命(第二革命)

1923年:ソビエト連邦(U...R)成立

1924年:レーニン死去

1925年:ソ連「一国社会主義」を採択

       以後、スターリンの独裁体制へ

1929年:世界経済恐慌

1939年:ドイツとソ連によるポーランド侵攻

        1945年 第二次世界大戦

1948年:東西冷戦の始まり

1956年:スターリン批判(独裁、恐怖政治の終焉)

 

1930年代から、政府は音楽を含む一切の芸術表現に「社会主義リアリズム(社会主義革命を称賛して、

その現実を正しく具体的かつ平易に描写すること)」を求めました。検閲を行い、音楽でも形式や歌詞

などが反体制的と判断されると、処罰されました(最悪の場合は処刑)。

ショスタコーヴィチも、共産党機関紙「プラウダ」などで強く批判されたことがあり、政府に阿った作曲を

せざるを得なかったようです。それは、彼の交響曲で標題が付いている作品を見ると分かり易いです。

(カッコ内は、曲の題材・テーマ)

 

  交響曲第2番「十月革命に奉げる」・・・(1917年のロシア第二革命)

  交響曲第3番「メーデー」・・・(プロレタリアートの連携)

  交響曲第7番「レニングラード」・・・(第2次大戦のレニングラード攻防戦)

  交響曲第11番「1905年」・・・(ロシア第一革命)

 

 

とは言え、1920年代(「社会主義リアリズム」が採用される前)のソ連では、前衛的な芸術活動が盛んで、

米国などのポピュラー音楽にも寛大でした。特にジャズは「(敵対する)米国で差別され、虐げられている

黒人」の音楽とされて、歓迎される傾向すらありました。1920年代後半には、国内に多数のジャズ・バンドが

あったようです。

それどころか、ソビエトにおけるジャズ音楽の普及と評価を高めることを目的とした「ソビエト・ジャズ

委員会」という組織もあり、ショスタコーヴィチはその委員の一人でした。

しかし、1932年頃から「社会主義リアリズム」が推進されていくと、ジャズは「西側諸国の悪しき

ブルジョワ文化」であるとされ、非難・排除されるようになります。代わりに、国民音楽(民族舞踊など)

が尊重され、前衛的でなく、誰にでも分かる、親しみやすい音楽(メロディ)であることが求められました。

そのような中、ソビエト・ジャズ委員会の活動の一環として創作されたのが「ジャズ組曲」でした。

 

ジャズ組曲 1

社会主義リアリズム運動が強化され始めた1934の作曲で、分かり易い民族舞曲風の以下の3曲から成ります。第1曲「ワルツ」の出だしの箇所は「セカンド・ワルツ」と似た雰囲気です。全く「ジャズ」のようでは

ありません。政府の方針に従って(迎合せざるを得ず)「悪しきブルジョワ文化」を排除した、「ジャズ」

という名の舞曲集です。

 

     ・ワルツ  ・ポルカ  ・フォックストロット

 

ジャズ組曲 2

1938に作曲されたらしいですが、第2次大戦の混乱(ナチス・ドイツの侵攻)で楽譜の所在が分からなく

なってしまいます。それから約50年経った1999、ピアノ総譜が発見されます。それをイギリスの作曲家が

オーケストラ楽譜に仕立て直し、200099日に初演されました。組曲は、次の3曲から成っています。

 

  ・スケルツォ  ・子守歌  ・セレナーデ

 

(アレッ?組曲第2番には「セカンド・ワルツ」どころか、「ワルツ」が一つも無い!此は如何に?)

 

舞台管弦楽のための組曲・第1

1950年代になって、ショスタコーヴィチは「舞台管弦楽のための組曲・第1番」を作曲します。ところが、

上記のように「ジャズ組曲・第2番」の楽譜が行方不明となっており、その内容がハッキリ分からなかった

為に、本来は全く関係がないこの曲と混同されてしまいます。その結果、「舞台管弦楽のための組曲・第1番」

が「ジャズ組曲・第2番」と(誤って)呼ばれるようになりました。しかも、本当の「組曲第2番」が

発見された後も、間違った曲名のままで罷り通っています(我が楽団の楽譜のタイトルも、そうなって

います)

組曲は下記の8曲から成り、過去に作曲した映画音楽やバレエ音楽などから転用した曲が混じっています

(「セカンド・ワルツ」も、その一つです)。いずれの曲も、(ジャズ組曲 1番と同様に)軽音楽のような

親しみ易さを持ったダンス曲です。

 

  第1曲: 行進曲
  第2曲: リリック・ワルツ
  第3曲: 1ダンス
  第4曲: 1ワルツ
  第5曲: 小さなポルカ
  第6曲: 2ワルツ
  第7曲: 2ダンス
  第8曲: フィナーレ

 

「セカンド・ワルツ」は、この第6曲で、組曲の中の「第4曲: 1ワルツ」の後の「2番目のワルツ」です。

元々は、開拓地の共産党青年団を描いたソ連映画「第一軍用列車」(1956年)の挿入曲として作曲された

曲です。優雅さと物悲しさを併せ持つメロディは、「クレズマー」という東欧系ユダヤ人の民族音楽の要素が

取り入れられているそうです。

 

 

 

56の部屋

くるみ割り人形の「パ・ド・ドゥ(Pas de deux)」

 

パ・ド・ドゥとは

フランス語で「123」は、「un(アン)、 deux(ドゥ)、 trois(トロワ)」。また、「Pas(パ)」は

バレエ用語で「ステップ・動き」のことで、Pas de deuxパ・ド・ドゥ)」は2人の、特に男女2人による

踊りです。男性が女性を持ち上げる「リフト」など高いテクニックを要するため、踊り手の技術の大きな

見せ場となっています。ちなみに同性の2人による踊りは「デュエット(デュオ)」、3人で踊るのは

「パ・ド・トロワ」と言うようです。 

 

くるみ割り人形のパ・ド・ドゥ』  

「くるみ割り人形」は、第1幕と第2幕から成り、15曲(実質、全部で24曲)で構成されるバレエ音楽です。この内から8曲を選んだのが演奏会用の組曲で、構成は次の通りです。

 

組曲「くるみ割り人形」

①小さな序曲  ②行進曲 ③金平糖の踊り ④ロシアの踊り(トレパック)

⑤アラビアの踊り(コーヒー) ⑥中国の踊り(お茶) ⑦葦笛の踊り ⑧花のワルツ

 

組曲の最後の有名な「花のワルツ」が実に華やかなので、大団円で物語が終わる最後の曲のような雰囲気が

ありますが、この曲はバレエ音楽の中では全15曲中の第13曲。この後に第14 「パ・ド・ドゥ」と

15曲「最後のワルツとアポテオーズ(フィナーレ)」が続きます。

 

さらに、第14曲の「パ・ド・ドゥ」は次のような構成になっています。

 

アダージョ(金平糖の精と王子によるパ・ド・ドゥ)

ヴァリアシオンI「王子のタランテラ」( ソロの踊り)

ヴァリアシオンII「金平糖の精の踊り」( ソロの踊り)

コーダ(金平糖の精と王子によるパ・ド・ドゥ)

 

このような「4部構成」で男女二人が組んで踊るバレエの形式は「グラン・パ・ド・ドゥ」と

呼ばれています(「グラン」は「大きい」の意)。

今回、我が楽団で演奏しているのは、①のアダージョ(金平糖の精と王子によるパ・ド・ドゥ)」の

部分です。あまりにも美しいので、単独で演奏されることが多い曲です。組曲では3番目の

「金平糖の踊り」が、バレエでは最終のところに位置しているのも注目点です。

ちなみに、金平糖の精はお菓子の国の女王です。

 

順次進行メロディー』 

「ドレミファ」や「ラソファミレ」のように、音がスケール(音階)の隣の音へと進んでいくのを「順次進行」

と言います。チャイコフスキーは「音階の作曲家」と言われるほど、彼の作品には順次進行のメロディーが

多用されています(

 その典型例が、この「パ・ド・ドゥ(アダージョ)」です。基本となる「ドーシラソファ―ミレドー」と

「ラーソファミレードシラー」の二つの丸々1オクダーブに及ぶ順次進行が、哀調や緊張感のある中間部を

挟んで計10回くらいも登場します。それでいて「くどさ・しつこさ」を感じません。

 

:チャイコフスキーの順次進行メロディーの例

交響曲第6番 第4楽章  (ミーレドシーラシー・・・)

「白鳥の湖」導入部 (ミーーレドシラシーソミ・・・)

2幕「情景」 (ミーラシドレミード・・・)

「弦楽セレナーデ」第3楽章 (レーミファソラシドレーミーファミ・・・)

 

馴染みやすい順次進行」のメロディーは、他の作曲家の有名な作品でも聴かれます。

 

ベートーベン:交響曲第9番第4楽章(所謂「歓喜の歌」)

(ミーファソソファミレドーレミミーレレー・・・)

ベルリオーズ:「幻想交響曲」第2楽章「舞踏会」

(ミレドシドレミファソーソラシドーシ・・・)

 

(くるみ割り人形の物語のあらすじは、「本欄の第1の部屋」を参照)

 

 

 

ミッション: インポッシブルMission: Impossible

 

1966年から8年間、アメリカのテレビネットワークCBSで放送され、高い視聴率を記録したスパイ物の

アクションドラマです。エミー賞やゴールデングローブなど多くの賞を受賞しました。

日本でも1967(昭和42)年から「スパイ大作戦」の題名で放送され、大ヒットしました。

物語の内容は、国家の諜報機関からの指令を受け、主人公のジム・フェルプスを中心に、それぞれ特技を

持つ数人のチームで、実行不可能と思われる作戦を展開、成功するというもの。

オープニングのテーマ曲が印象的ですが、作曲したのは、アルゼンチン出身のラロ・シフリン

1932年~)で、本作でグラミー賞を受賞しています。映画やテレビシリーズの作曲が多く、他に

ブリット」、「ダーティハリー「燃えよドラゴン」などのテーマ曲があります。

ところで、「ミッション: インポッシブル」のテーマ曲は4分の5拍子。やや珍しい拍子ですが、この曲の他に有名な5拍子の曲として次の作品があります

 

ジャズ

「テイク・ファイブ(Take Five)」(デイヴ・ブルーベック)

映画音楽

「ゴジラのメインテーマ」・・・8分の4拍子と5拍子が交互に繰り返されます。

クラシック

 チャイコフスキー:交響曲第6番「悲愴」第2楽章

ラヴェル:バレエ音楽「ダフニスとクロエ」第2組曲 全員の踊り

ホルスト:組曲「惑星」 第1曲「火星」

 

 

 

ア・ホール・ニュー・ワールド A Whole New World

 

ディズニーアニメ映画アラジン』で、王子に変装した貧しい青年アラジンが、王女のジャスミンと

魔法の絨毯に乗って世界中を見て回る場面で唄われる曲です。

映画は1992年に制作され、「ホール・ニュー・ワールド」はアカデミー歌曲賞を受賞しました。

また翌年には、年間ビデオ販売数全米1位の売り上げを記録しました。
日本での公開は1993年で、セルビデオの出荷数が歴代1位の売り上げとなるなど、日本でも大人気と

なりました。

作曲は、アメリカ・ニューヨーク出身のアラン・メンケン(Alan Menken)。ディズニーアニメ映画では、

他に、「リトル・マーメイド」(1989年)、「美女と野獣」(1991年)、「ポカホンタス」(1995年)の

音楽を作曲し、それぞれアカデミー賞を受賞しています。また、ディズニーアニメ映画以外でも

ノートルダムの鐘」』(1996年)、「ヘラクレス」(1997年)、「塔の上のラプンツェル2010年)

ほか、多くの映画音楽を作り出し、アカデミー賞ほか多数の音楽関連部門の賞を受賞しています。

 

 

 

55の部屋   

アメリカン・パトロール(American Patrol

 

1885(明治18)年に作曲された軍隊マーチです。作曲したのはアメリカのフランク・ホワイト

・ミーチャム (1856 - 1909 )で、クラシックの作曲家で言えば、ヤナーチェク(チェコ)やエルガー

(イギリス)、プッチーニ(イタリア)と同年代の人です。

この曲が作曲された1885年は、アメリカ合衆国の独立から100年、南北戦争が終わって20年後で、

アメリカの国力が増強していく頃です。同年、ワシントンDCにワシントン記念塔が、翌年には

ニューヨークで自由の女神像が完成しています。

 

曲は当初、ピアノ曲として書かれましたが、1891年にカール・フィッシャーという人が軍楽隊向けに

編曲しました。これが、我々が一般に軽快なマーチとして聴く曲です。曲中には、次の3つの南北戦争時代の

アメリカ民謡・歌曲がアレンジされて使われています。

 

ディキシー・ランド

南北戦争南軍が愛唱した歌。「ディキシー(Dixie)」は米国南部の諸州の通称です。

コロンビア・大洋の宝

アメリカ愛国歌。「コロンビア」はアメリカの古名・雅称です(日本の「大和」に

相当)。国歌「星条旗The Star-Spangled Banner)」が制定されるまで非公式の

アメリカ国歌一つでした。

『ヤンキー・ドゥードゥル』

アメリカ独立戦争の際に軍歌として歌われていたアメリカ愛国歌

日本では「アルプス一万尺」として知られています。

 

さらに第二次世界大戦中の1942年に、ジェリー・グレイという人がグレン・ミラーのスウィング・バンド用に

編曲して大ヒットしました(言うまでもなく、我が楽団の楽譜はこのスイング・スタイルのものです)。

 

因みに「アメリカン・パトロール」は、日本では1967(昭和42)年にNHKの「みんなのうた」で、

「ゆかいな行進」という題名で放送され、唄っていたのはデューク・エイセスだったようです。

また最近では、20192020年のチューハイ・カクテル「キリン・ザ・ストロング」のCMに、2022年には

「キリン・一番搾り糖質ゼロ」のCMソングに、この曲が使われていました。麒麟麦酒の広告制作者は

この曲が好きなようです。

 

 

 

54の部屋   喜歌劇「天国と地獄」より

 (Orphée aux Enfers)

 

 1858年に作曲され、同年にフランス・パリの歌劇場で初演された喜歌劇です。1858年というと、フランスは

ナポレオン三世による第二帝政の時代で、ロシアと同盟国(英・仏・オスマン帝国)が戦った「クリミア戦争」が終わり、

ヨーロッパではイタリアとドイツがそれぞれ統一されていく頃です。

作曲したジャック・オッフェンバック(18191880年)は、ドイツのケルン生まれのユダヤ人で、子供の頃に

パリに移り住みます。パリ音楽院に入学してチェロを学び、パリの歌劇場の管弦楽団員、さらに後年は

劇場の指揮者と作曲家になります。作曲家としてはワーグナーやヴェルディの後、フランクやブルックナー

より前の年代です。

彼の音楽は、ユーモアに満ち、軽妙で美しく、転調による変化に富んだ旋律が特徴で、この「天国と地獄」と「ホフマン物語」(舟歌が有名)が代表的傑作とされます。彼は生涯に約90の喜歌劇作品を残し、フランス

喜歌劇の創始者とも言われています。

 

この曲は、いろいろな意味で有名な曲です。我々の楽譜だと「練習番号O 」以降の部分は、「運動会の

徒競走のための音楽」や「フレンチ・カンカンの曲」として知られる曲です。また、その部分の曲名が

「天国と地獄」だと思っている人も多いようですが、あれは喜歌劇の中の「地獄のギャロップ」と呼ばれて

いる曲です。

軽快なテンポと躍動的なメロディーが、運動会の駆けっこやカンカン踊りに馴染むようです。なお、

この他に運動会でよく使われる次のような曲があります。

 

カバレフスキー:組曲「道化師」ギャロップ

ネッケ:「クシコスポスト」

ヨハン・シュトラウス2世:「トリッチ・トラッチ・ポルカ」

ロッシーニ:「ウィリアム・テル」序曲 スイス軍の行進

 

この軽快さをパロディーとして逆手に取ったのが、サン=サーンスの組曲「動物の謝肉祭」の

4曲「カメ」で、「地獄のギャロップ」が弦楽部とピアノによって超スロー・テンポで演奏されます。

カンカンと言えば、5匹の小熊の操り人形が「地獄のギャロップ」の音楽に合わせて「♪カステラ1番、

電話は2番、3時のおやつは文明堂~♪」と踊るテレビCMがありました。あれは1962(昭和37) 年に始まり、

なんと現在も続いているのだそうです。

 

因みに、文明堂のCMソングの中の「電話は2番」というのは、文明堂の電話番号が0002番だからです。

1935(昭和10)年発行の電話帳の裏表紙に「カステラは一番、電話は二番」と大きく書かれた宣伝を

出すなど、早くから「電話は2番」をキャッチコピーとして使っていたようです。同社のHPで確認した

ところ、現在も電話番号は、文明堂東京本社が「03-3351-0002」、長崎市の文明堂総本店の

095-824-0002」ほか、支社の多くも「0002番」となっており、「電話は2番」に対する強い拘りが

感得されます。

更に話は脱線しますが、昭和37 年と言えば、日本テレビ系で放送される料理番組「キユーピー3

クッキング」も、昭和37 年から続いているようです。

閑話休題。

 

曲名

 原題は、楽譜にも書いてある「Orphée aux Enfers」。フランス語で「地獄(冥界)のオルフェ」という

意味です。英語で表すと「Orpheus in the Underworld」です。オルフェとは、この喜歌劇の主人公の男の

名前で、バイオリンの教師をしています。一般に使われる名称「天国と地獄」は、1914(大正3)年に東京の

帝国劇場で日本における初演時に付けられた邦題です。ふしだらな女(El Bimbo)」邦題が

オリーブの首飾り」ワルトトイフェルの「学生の楽隊(Estudiantina)」邦題「女学生」

であるように、原題と邦題が大きく異なることがあります。

 

【序曲】

本来、喜歌劇「天国と地獄」に序曲はなかったのですが、後人が舞台で演奏される曲から数曲を選んで

編曲して「序曲」としたものがいくつかあり、現在、コンサート用の曲として演奏されている曲は、

その一つです。

 なお、野村先生の楽譜は、その序曲の一部を序曲には入っていない(舞台で演奏される)曲(※)と

入れ替えた編曲になっています。楽譜に記された曲名が「天国と地獄 序曲」ではなく、「天国と地獄より」

となっているのは、そのためです。

 

:楽譜の練習番号の間の曲

 

オルフェウス

喜歌劇「天国と地獄」は、ギリシャ神話の「オルフェウス物語」をベースにしています。オルフェウス物語

の概要は次の通りです。

竪琴の名手オルフェウスの妻であるエウリディケが、牧人アリスタイオスに追われて逃げている時に毒蛇に

咬まれて死んだ。オルフェウスは、妻を慕って冥界に下りて行く。冥界の神々から、地上に出るまで決して

後ろを見ないという条件で妻を連れ戻す許しを得る。しかし、地上に出る寸前にオルフェウスは誘惑に負けて

後ろを振り返る。その瞬間、妻エウリディケは冥界に引き戻されてしまう。

・・・あれっ?どこかで聞いたような。「イザナギとイザナミ」の神話とそっくりです。このようなストーリーは、

日本やギリシャだけでなく、欧州や太平洋の島々など世界中の神話に見られるのだそうです。

これを題材として1762年に作曲されたのが、グルックの歌劇『オルフェオとエウリディケ』です。グルックは

バッハとハイドンの間の世代で、バロック~古典派の作曲家です。

このグルックの歌劇を、退廃的に面白おかしく風刺した(パロディー)が、オッフェンバックの『天国と地獄

(地獄のオルフェ)』です。グルックの歌劇中のアリアの旋律を引用している箇所もあります。

 

【天国と地獄のあらすじ】

1

バイオリン教師のオルフェには愛人がいて、妻のユリディスにも羊飼いアリステ(実は地獄の王プルート)

という愛人がいる。ある日、オルフェは妻の浮気相手が毒蛇に噛まれるように罠を仕掛ける。が、蛇に

噛まれたのはユリディスの方で、死んでしまう。それでも、妻がいなくなってオルフェは大喜び。地獄の王

プルートと晴れて一緒に地獄に行けるユリディスも大喜び。

 そこに人の姿をした「世論(常識や道徳、倫理)」がオルフェの前に現れ「当然、妻を取り返すべきだ」と

言う。不承不承オルフェは神の世界(天国)へ行き、神々の王ジュピテルに「妻を返して欲しい」と頼む。

美人のユリディスに興味があるジュピテルは、天国で退屈していた神々を連れてオルフェと共に地獄へ向かう。

 

2

ユリディスは地獄の王プルートと不倫を楽しんでいたが、プルートはジュピテルにユリディスを盗まれない

よう、部屋に鍵を掛けてユリディスを幽閉する。ジュピテルは、蠅に変身して鍵穴からユリディスの部屋に

侵入。一緒に天国へと行こうと誘う。ユリディスは満更でもない。しかし、プルートに見つかり大騒ぎとなる。

そこにオルフェが現れる。ジュピテルは、現世に戻り着くまでユリディスを振り返って見てはいけないという

条件で、夫婦を帰してやることにする。

オルフェは全く振り返らないで進んでいく。ユリディスを地上に帰らせたくないジュピテルは雷をオルフェの

背後に落とす。驚いてオルフェが振り返ると、ユリディスは再び冥界に戻されることになった。

しかし、オルフェは地上の愛人の許へ戻れると大喜び。ジュピテルはユリディスを酒の神バッカスに預ける

ことにする。結局、「世論」以外の皆が喜ぶ結果になったことから、天国と地獄の神々が入り乱れて全員で

愉快に歌い、乱痴気騒ぎが繰り広げられる。

(「地獄のギャロップ」は、この乱痴気騒ぎの場面の音楽の一つ)

 

――― つまり、学校では「快楽・不倫は素晴らしい!世の中の常識や道徳、倫理なんて糞くらえ!」という

意味の地獄のギャロップ」を、運動会のBGMとして流しているわけです(笑)

 

 

 

53の部屋   オリーブの首飾り (El Bimbo)

 

ポール・モーリア=グランドオーケストラの代表的な曲です。そのため、ポール・モーリア(2006年没)が作曲者だと思いがちですが、作曲したのはフランスのシンガーソングライターであるクロード・モルガンという人。モルガンがリーダーを務めるポップ・グループが、ディスコで演奏するための曲として、1974年に作られたようです。

翌年(1975年)、ポール・モーリア楽団がオーケストラバージョンに編曲してカバーしたところ、大ヒット曲となりました。ポール・モーリア楽団のヒット曲と言えば他に「恋はみずいろ」、「エーゲ海の真珠」、「蒼いノクターン」などがありますが、オリーブの首飾り」は同楽団演奏のシングル盤として、最多の売り上げを記録しています。

 

因みに、オリーブの首飾り」がヒットした1975年は、マーガレット・サッチャーが英国保守党初の女性党首となり(2月)、サイゴンが陥落して約10年続いたベトナム戦争が終わり(4月)、日本は三木内閣の頃で、今も続く「まんが・サザエさん」のテレビ放送開始(4月)、先日亡くなったエリザベス女王の来日(5)、沖縄海洋博覧会(7月から)などがあった年です。

 

この曲の原題は「El Bimbo(エル・ビンボ)」。なんと、これはスペイン語で「ふしだらな女」という意味です(スペイン語の辞書は持っていないので、Google翻訳で確認しました)。

そう言えば、「ダメよ、あなた~」と日本語の艶めかしい歌詞で唄っているのを聞いた記憶があり、調べてみました。あれは、ローレン中野と「和田弘とマヒナスターズ」が唄ったもので、曲名は「ゆうわく」となっていました。オリーブの首飾り」よりは原題に近い語感です。オリーブの首飾り」も日本で付けられた曲名ですが、これ自体に特段の意味はなく、雰囲気を醸成しているだけのようです。

 

曲の頭の旋律「チャリララララ~」を聴くと、マジックショ―を思い浮かべます。

この曲をマジックショ―で最初に使ったのは「松旭斎(しょうきょくさい)すみえ」という女性のマジシャンだとされ、その後、引田天功等も使ったことからマジックの定番曲になっていったようです。ただし、これは日本だけで、海外ではこのような習慣はないらしいです。

 

 

 

 

50の部屋  カンタータ「主よ人の望みの喜びよ」BWV147

Jesus bleibet meine Freude

 

ヨハン・ゼバスティアン・バッハ Johann Sebastian Bach

 

「G線上のアリア」や「トッカータとフーガ」等と並ぶ、音楽の父・バッハの代表的な作品です。バッハは教会のオルガン奏者だったことから、数多くの教会カンタータを作曲していますが、その中で最も頻繁に演奏されるのがこの曲です。

カンタータは独唱・重唱・合唱などに管弦楽の伴奏が付いた比較的大規模な声楽で、バロック時代にイタリアで始まりました。楽曲和名では「交声曲」と呼ばれます。カンタータは、歌の題材によって、教会の礼拝用に書かれた「教会カンタータ」とオペラのような「世俗カンタータ」に分けられますが、バッハは教会カンタータを主としながらも、いくつかの世俗カンタータも書いており、双方で200以上の作品を残しています。

 

「主よ人の望みの喜びよ」は、これのみで独立した曲ではなく、カンタータ147番「心と口と行いと生活で(Herz und Mund und Tat und Leben)」という下記のような全10曲から成る曲集の中の10曲目のコラール(プロテスタント教会の讃美歌)です。

 

[1  

1 合唱「心と口と行いと生活で」

2 レチタティーヴォ「祝福されし口よ」

3 アリア「おお魂よ、恥ずることなかれ」

4 レチタティーヴォ「頑ななる心は権力者を盲目にし、最高者の腕を王座より突き落とす」

5 アリア「イエスよ、道をつくり給え」

6 コラール合唱「イエスはわたしのもの」

 

[2  

7 アリア「助け給え、イエスよ」

8 レチタティーヴォ「全能にして奇跡なる御手は」

9 アリア「われは歌わんイエスの御傷」

10 コラール合唱「主よ、人の望みの喜びよ」

 

この「心と口と行いと生活で」は1716年頃に作曲され、1723年に現在の形に改作されています。今のドイツでプロイセン王国が成立し、ヨーロッパの強国になりつつある頃です。キリスト教の「待降節(クリスマスまでの約4週間の準備期間)」のために作られた曲で、第10「主よ人の望みの喜びよ」に一貫して流れる上品で美しい旋律は、1642年頃に編まれた讃美歌集から引用されたもの。この旋律は第6曲「イエスはわたしのもの」にも出てくる(歌詞は第10曲と異なる)他、バッハの「マタイ受難曲」など他の作品にも使われています。

 

「主よ人の望みの喜びよ」の歌詞は、次の通りです。

 

Jesus bleibet meine Freude,    イエス、人の望みの喜び、
meines Herzens Trost und Saft,
   私の心の慰めと源、
Jesus wehret allem Leide,
      イエスは全ての苦しみを防ぎ、
er ist meines Lebens Kraft,
     彼は私の命の力です
meiner Augen Lust und Sonne,
   私の目の楽しみと太陽、
meiner Seele Schatz und Wonne;
   私の魂の宝と喜び
darum laß' ich Jesum nicht
     なので、私はイエスから離れない
aus dem Herzen und Gesicht.
     私の心とお顔から

 

『BWV番号について』

バッハの曲には、題名と共にBWV〇〇という番号が付いています。「主よ人の望みの喜びよ(心と口と行いと生活で)」なら「BWV147」です。

これは、J.S.バッハの作品を1950にドイツの音楽学者シュミーダーが、作品の分類により纏めた整理番号で、Bach-Werke-Verzeichnis(バッハ作品目録)の頭文字です。モーツァルトの「K(ケッヘル)」番号に相当するものですが、ケッヘルや一般的な作品番号「Op」が、作曲または出版の順に付番した番号であるのに対し、BWVは音楽のジャンルで分けられて付番されています。

 

 

49の部屋  小さな喫茶店 In einer kleinen Konditorei

 

ドイツ生まれのコンチネンタル・タンゴ(ヨーロピアン・タンゴ)の名曲です。1928年に発表され、翌年に製作された同名の映画の主題歌にも使われました。

 

作曲は、ウィーン生まれで、ベルリンで活躍したフレッド・レイモンド(19001954年)で、数多くのオペレッタや軽音楽の作品があります。また作詞は、オーストリアの作家ソングライターのエルンスト・ノイバッハ(1900 1968)です

 

日本には1934年に紹介され、日本語の訳詞で中野忠晴(当時、日本コロンビア所属)に、戦後は、ザ・ピーナッツ、菅原洋一など多くの歌手によって歌われています。

 

ノイバッハの原詞の意味は次の通りです。

 

小さな喫茶店の中で私たち二人は座っていた
ケーキとお茶を前に   二人は一言も話さずに
けれど、あなたは私があなたを理解していることをすぐに知った

エレクトリックピアノ(が静かに
「愛の喜びと悲しみの曲」を奏でていた
そして、その小さな喫茶店で、私たち二人は座っていた
ケーキとお茶を前にして

 

エレクトリックピアノ」は、1920年代にドイツで発明されています。

 

ところで、この曲が出来た1928年から日本に伝わった1934年辺りは、次のような時代でした。

 

第一次大戦後のベルサイユ体制の下で、1926年にドイツが国際連盟に加入。翌年には「ジュネーブ軍縮会議」があり(30年には「ロンドン海軍軍縮会議」も)、28年にはパリで「不戦条約」が結ばれるなど、国際協調の機運が高まりつつありました。世界経済も比較的安定していた時期でした。

しかし、2910月にニューヨーク市場の株価が大暴落(暗黒の木曜日)。これを機に世界は恐慌に突入していきます。ドイツの経済はたちまち破綻に瀕し、1932年の選挙でナチスが第1党となり、翌33年、ヒットラー内閣が誕生しました。

日本では、1928年に「第1回普通選挙」が行われています。しかし同年に張作霖爆殺事件があり、31年には満州事変、32年に上海事変と五・五事件、33年にはドイツと共に国際連盟を脱退するなど、次の世界大戦に向けて転がって行くことになります。

 

二人が座る喫茶店の長閑けさは、(歴史の上では)世界恐慌や戦争が始まる寸前の、束の間の平和だったようです。

2022627日)

 

 

 

48の部屋  Top of the World    Carpenters

 

 カーペンターズ(Carpenters)」の代表作の一つです。1972年に発表され、翌年にはアメリカのポップチャートで1位になりました。

カーペンターズは、アメリカ・カリフォルニア州出身の兄妹によるデュオで、兄のリチャード・カーペンターが作曲、アレンジ、ピアノを担当。妹のカレン・カーペンターがボーカル担当していました。1983年、カレンの突然の死によって活動を終えました。

 

歌詞

 

Such a feelin's comin' over me There is wonder in 'most every thing I see 

Not a cloud in the sky     Got the sun in my eyes          

And I won't be surprised if it's a dream   

 

こんな感覚が私に訪れるなんて 目にする全てものに驚く
空には雲一つなく 私の目には太陽が映る 

これが夢であっても驚かない

Everything I want the world to 
be   Is now comin' true especially for me

And the reason is clear   It's because you are here

You're the nearest thing to heaven that I've seen

 

この世界に私が望むもの全てが  私のためだけに実現しようとしている
その理由はハッキリしている   それはあなたがここにいるから
あなたは、私が見た中で一番天国に近い存在

I'm on the top of the world     Lookin' down on creation

And the only explanation I can find   Is the love that I've found

Ever since you've been around

Your love's put me at the top of the world

 

私は世界の頂上にいて      (神様が)創ったものを見下ろしている

それがどういうことなのかただ一つ説明できるのは 私が見つけた愛だということ
あなたが傍に居るようになってからずっと
あなたの愛が、私を世界の頂上にいるような気分にさせる

Somethin' in the wind has learned my name  

And it's tellin' me that things are not the same

 In the leaves on the trees  And the touch of the breeze

 There's a pleasin' sense of happiness for me

 

風の中の何かが私の名前を憶えている
同じものはないことを教えてくれている
木々の葉にも 風のそよぎにも
私を幸せにするものを感じる


There is only one wish on my mind  

When this day is through I hope that I will find
That tomorrow will be
  Just the same for you and me
All I need will be mine if you are here

私にはただ一つの願いがある
この日が終わったら、あなたと私にとって今日と同じ明日が来ること
あなたがここにいるだけで、私の望むもの全てを手にする

 

 

 

 

47の部屋    コッペリアCoppélia

「前奏曲とマズルカ」

 

「フランスのバレエ音楽の父」と呼ばれるレオ・ドリーブ(18361891年)の代表作です。ドリーブは大衆的な歌劇やバレエ音楽を多く作曲した人で、馴染み易く抒情的な旋律が特徴です。同年代の作曲家として、同じフランスのサン・サーンス(生年1835年)やビゼー(1838年)、ドイツのブラームス(1833年)等がいます。

 

「コッペリア」は1870年に初演された「カラクリ人形」が題材のバレエ音楽で、物語はドイツの作家・ホフマンの物語に依るものとされます。

因みに、「動く人形」を題材にしたバレエは、他に、チャイコフスキーの「くるみ割り人形(初演1892年)」やストラヴィンスキーの「ペトルーシュカ(初演1911年)」があります。また、「くるみ割り人形」もホフマンの物語が基になっています。

 

マズルカ(mazurkaは、ポーランドの民族舞曲で、19世紀に貴族たちの間で流行しました。名称は、首都であるワルシャワを中心とした「マゾフシェ地方」の人々(マズル)が踊っていたことに由来するようです。4分の3拍子を基本とし、1拍は付点音符、第2拍か第3拍にアクセントが置かれることが多い、特徴的なリズムです。

 

バレエ「コッペリア」の中でのマズルカは、男女ペアになった大勢の村人が軽快な足捌きで踊る場面(第1幕・第3曲)で演奏される音楽です。

「前奏曲とマズルカ」は所謂「序曲」に相当する曲で、冒頭、第1幕の幕が上がる前に演奏されます。短い「前奏曲」の後に「(第1幕・第3曲でも演奏される)マズルカ」が続き、「前奏曲+マズルカ」で一塊の「序曲」のような形になっています。

当楽団の楽譜なら、21小節目の練習番号(バグダッドの「B」)までが前奏曲。それ以降がマズルカです。

 

物語の『あらすじ』

1

舞台はポーランドの農村。変わり者で偏屈な人形職人コッペリウスが、本物の人間そっくりな美しいカラクリ人形を作り、「コッペリア」と名付ける。コッペリアは家の二階のベランダに置かれ、座って本を読んでいる(機械仕掛けで動きます)。

村娘のスワニルダと、その恋人フランツとは婚約している。フランツは、村の広場から見えるコッペリアが人形であることを知らず、その美しさから恋をしてしまう。スワニルダは嫉妬してフランツと喧嘩し、婚約を解消する。

ある日、人形職人のコッペリウスが街へ出かける際、家の鍵を落とす。鍵を拾ったスワニルダと友人たちは、コッペリウスの家に忍び込む。

2

家の中には、機械仕掛けの人形が数多く置かれていた。スワニルダ達は、コッペリアも人間ではなく人形であることに気付いて驚く。

そこにコッペリウスが帰宅。コッペリウスは怒り、友人たちは逃げ去るが、スワニルダは室内に身を隠す。 その時、コッペリア会いたいと思ったフランツが、梯子を使って窓から忍び込んで来る。

コッペリウスは怒りつつも、魔法を使ってフランツから命を抜き取り、人形のコッペリアにその命を吹き込むことを思い付く。薬を混ぜたワインを飲まされたフランツは眠りに落ちる。その様子を見ていたスワニルダは、コッペリアから脱がせた服を着て、コッペリアに成りすます。

コッペリウスは、コッペリア(実はスワニルダ)に命を吹きこもうとする。人形のコッペリア(スワニルダ)は一人で動き出し、コッペリウスを翻弄して大暴れする。 この騒ぎにフランツは目を覚まし、二人で逃げ出す。コッペリアの正体を知ったフランツはスワニルダに謝り、二人は仲直りする。

3

今日は、スワニルダとフランツの結婚の祝宴。村には新しい鐘が奉納され、祝いの宴が始まる。そこへ、コッペリウスがやって来る。彼は、大切にしていた人形をスワニルダに壊されたので怒っている。しかし彼は、スワニルダとフランツが深く謝り、村長から損失補填のお金を貰ったので機嫌を直し、一緒に二人を祝福する。

賑やかな踊りが次々と披露され、歓喜が高まる中、大団円で舞台の幕は閉じる。

 

 

【演奏記号】

 この曲の楽譜に記された演奏記号の意味は、次の通りです。[ ]内は小節番号。

 

12] cantandoカンタンド): 歌うように. 表情を込めて

2036] rall.(=rallentandoラレンタンド):だんだん遅くする。

次第にLentoに。略記がrall.

21] marcato(マルカート):はっきりと。音の一つ一つをはっきりと演奏する

40] Tempo di Mazurkaテンポ ディ マズルカ):マズルカの速さで

58] leggiermenteレッジェールメンテ.):軽く優美に、ノンレガートで

192] Animez(アニメ): 生き生きと速く

 

 

組曲

1.前奏曲とマズルカ

2.情景とスワニルダの円舞曲

3.チャルダッシュ

4.情景と人形の円舞曲

5.バラード

6.スラヴ民謡の変奏曲

 

 

 

46の部屋 ラ・クンパルシータLa Cumparsita

誰でも聞いたことのある、アルゼンチン・タンゴの代表作です。アルゼンチン・タンゴとは言え、作曲したのはアルゼンチンの隣国ウルグアイの人、ヘラルド・マトス・ロドリゲス (18971948)で、作曲した当時は、まだ大学に通う学生でした。

その彼が学生仲間と参加するカーニバルのパレードに出る際に、「行進曲」として作曲したのがこの曲の原型で、規則正しく刻まれるリズムには行進曲の面影があります。

その後、大幅に改変して編曲され、「タンゴ」として演奏されるようになりました。さらに歌詞が付けられたり、色々な楽団がアレンジをしたりして世に広がり、20世紀になると多くの楽団がアンコールの定番曲として演奏するなど、絶大な人気を誇るアルゼンチン・タンゴの代表曲になりました。

題名の「クンパルシータ(Cumparsita)」は、ルンファルドと呼ばれる俗語で「小さな仮装行列」という意味。ルンファルドは、アルゼンチン・タンゴの歌詞でしばしば使われる方言のような俗語で、イタリア語(※)やポルトガル語、先住民の言葉の影響を受けた言語です。なお、Cumparsitaはポルトガル語で「仲間」という意味でもあります。

ブエノスアイレスにはイタリアからの移民が多く住んでいます)

 

 

 

45の部屋 L-O-V-E (LOVE)

 

アメリカの歌手でジャズピアニストでもあるナット・キング・コール(Nat King Cole 19191965)が、肺癌で亡くなる直前に発表された大ヒット曲です。馴染みやすい軽快なメロディで、日本でもテレビCMなどでよく使われます。

歌の歌詞と大意は次の通りです。

 

L-O-V-E (LOVE)
作曲 Bert Kaempfert  作詞 Milt Gabler

 

L is for the way you look at me
"L"
 それは私を見つめる君のまなざし

O is for the only one I see

"O" それは私が見ている唯一の人
V is very, very extraordinary

"V" それはとてもとても特別な気持ち
E is even more than anyone that you adore can

  "E"  それは誰よりも君を愛している

 

 

 

44の部屋 ワルツ「女学生」Estudiantina

 

エミール・ワルトトイフェル(18371915年)は、通俗・大衆音楽を主とするフランスの作曲家です。「フランスのワルツ王」とも呼ばれ、ワルツやポルカ等の舞踏音楽を300曲ほど遺しています。ただし、現在しばしば演奏される有名な曲は、この「女学生」と「スケーターズワルツ」くらいで、日本では「スケーターズワルツ(「スケートをする人々」とも呼ばれます)」の方が一般に親しまれています。

作曲有れたのは1883年。前年にドイツ、イタリア、オーストリアによる三国同盟が結ばれ、欧州全体が帝国主義に移行していく時代です。なお、同年代の作曲家には、ブラームス(1833年生まれ)、サンサーンス(1835年)、ビゼー(1838年)、チャイコフスキー(1840年)等がいます。

 

ところで、題名の「女学生」は誤訳によるもので、この曲と女学生とは全く関係ありません。誤訳となった経緯は以下の通りです。

 

昔、スペインの貧しい大学生達は、学費を稼ぐために、夜になるとギターやマンドリン等の楽器を持ち寄り、街中を流しで演奏して幾ばくかのお金を得ていました。その楽団が"Estudiantina"(学生たちの楽隊)と呼ばれていたのですが、これがこの曲の原題として日本に紹介された際に、スペイン語のestudiante(学生)」の女性形名詞だと勘違いして「女学生」と訳してしまったようです。

因みに、英語での題名は「Band of Students Waltz(学生バンドのワルツ)」となっています。

 

今では「誤訳題名」として有名な曲なのですが、手元にある古い「クラシック音楽鑑賞事典」(講談社学術文庫)を見てみると、この曲の解説が次のように書かれています。

『青春を楽しむ女学生の朗らかで楽しい笑いに満ち、それでいて淡い感傷を秘めている・・・(中略)・・・円舞曲である』

著者は音楽評論家なのですが、「女学生をイメージした標題音楽」だと誤解しているのです。

 

まあ、そのように聞こえなくもないですが、やはり違和感があります。そもそもこの曲は、フランスの作曲家Paul Lacomeが書いたスペイン音楽が原曲で、それを基にワルトトイフェルが再編したものです。リストの「スペイン狂詩曲」やビゼーの「カルメン」、リムスキー・コルサコフの「スペイン奇想曲」などがあるように、音楽界では時々「スペイン物」が流行り、この曲が出来た時もそうだったようです。

 

曲は、二つのスペイン民族舞踊曲を含む数種の旋律が接合した構成で、民族色が濃く、スペイン南部の明るさと軽快さに満ちています。「女学生」の雰囲気やイメージではありません。

それにしても、誤訳だと分かっているのに改題せず、いつまでも「女学生」の題名を付けて、CDや楽譜が売られ、YouTubeにもアップされているのには、首を傾げたくなります。海外の人がこの奇妙な実態を見たら、どう思うでしょう?

 

曲の構成と、楽譜に記載されている表示の意味は、以下の通りです。

①やなどは楽譜の練習番号・記号)

 

冒頭 Introduction  前奏(導入部)

 

Estudiantinarefrain)」 (ルフラン)ロンドの主題

 

② Couplet(クープレ) ロンド主題が反復される合間に挿入される副楽想。

 

 Chanson d'automne【フランス語】 秋の歌

 

③ Jota de la Estudiantina【スペイン語】 学生楽団のホタ

Jota(ホタ):スペイン各地で演奏されている音楽、民族舞踊

 

 Tirana (ティラナ)【スペイン語】 暴君

 

④  De Cadiz al Puerto 【スペイン語】カディスから港まで

カディス:スペイン南西部の港湾都市

 

 El Tripil (トリピーリ)【スペイン語】 

トリピーリ:スペインの民俗舞踊。本来の意味は「三重・トリプル」

 

 

 

43の部屋 「威風堂々」1

 

かつて当アンサンブルで「愛の挨拶」を演奏しました。その「愛の挨拶」以上にエルガーの代表作だとされるのが「威風堂々」です。

 

「威風堂々」は、第1番から第5番まである軍隊行進曲集(遺作を含めると第6番まで)ですが、実際に演奏される機会があるのは、この第1番です。勢いある序奏が少々唐突な感じで始まった後、躍動感いっぱいの行進曲へと続き、中間部(トリオ)では雄大なメロディーが高らかに演奏されます。

 

この第1番、特にその中間部の旋律は、恐らくエルガーの曲の中で一番有名だろうと思われ、「威風堂々」と言うと第1番、さらにはその中間部を指すことも多いようです。

エルガーは、国王エドワード7世の戴冠式ために書かれた曲でも、この中間部の旋律を使っており、イギリスでは、「Land of Hope and Glory(希望と栄光の国)」と題され、第2の国歌のように歌われています。

アメリカでも、この曲は学校の卒業式などで使われ、日本ではJリーグ・浦和レッズの応援歌として演奏されています(サッカーのイングランド代表のサポーターが応援歌として使っていますので、その真似でしょうか)。

ちなみに、イギリス(イングランド)の国歌は「神よ女王を守り給え(God Save the Queen)」。また、第二の国歌というと思い出すのがフィンランドの「フィンランディア賛歌」で、これもシベリウスの交響詩「フィンランディア」の中間部が転用されています。

 

さて、言うまでもなく「威風堂々」は日本語名です。なぜ、このような独特な語感の題名なのか、気になります。

英語のタイトルは「Pomp and Circumstance  Marches(※1)」で、直訳すると「華麗で厳かな儀式ばった行進曲」というくらいの意味になります。これは、シェークスピアの戯曲『オセロ』第3幕第3場の台詞 "Pride, pomp and circumstance of glorious war(誉れ、輝かしい戦いの華麗で厳かさ)"に基づいているのだそうです。

ご覧のように、日本語に翻訳するには、少々難しい語感を持つ言葉(※2)で、直訳してもスッキリしません。そのため、戦前の日本のレコードで「威風堂々たる陣容」と意訳されたタイトルが付けられ、それがさらに「威風堂々」と短縮され、現在に至っています。

 

1: Marchesと、複数形になっているのに留意。第1番から第56)番まである曲ですからね。つまり、「威風堂々」は1つだけではなく、行進曲集であるということ。

 

2: pompは「華麗、壮観、誇示」。circumstanceは一般に「状況、環境、境遇、出来事」などの意味ですが、古語として「儀式ばること、物々しさ、盛大さ」という意味があります。

 

『エドワード・エルガー(Sir Edward William Elgar)』(18571934)

18576月、エルガーはイングランド中西部ウスターシャー(※3)の田舎町ブロードヒースで生まれました(※4)。オルガン奏者でもあり楽器店の経営やピアノ調律師をしていた父親の手ほどきを受け、小さい時からオルガンを演奏していました。しかし経済的に恵まれず、正規の音楽教育を受けることができなかったため、独学でピアノやバイオリン、さらに作曲や指揮法まで勉強しました。

1889年、32歳の時に、ピアノの教え子であったキャロライン・アリス・ロバーツと結婚してロンドンに定住します。8歳年上の彼女に捧げた曲が、あの「愛の挨拶」です。

1890年の「フロアサール序曲」、1898年の「エニグマ(謎)変奏曲」などにより、彼は世間に知れ渡るようになります。そして1901年、エルガーが44歳の時に「威風堂々」第1番が発表されて近代イギリスを代表する作曲家になっていきました。さらに1904年(47歳)にはナイトに叙されています。

 

3: 19世紀、ウスターシャーに住む主婦が、余った食材に調味料を入れて保存していたら、ソースが出来ていました。これが後に「ウスター・ソース」と名付けられました。

 

4: プッチーニ(生年1858年)やマーラー(同1860年)、ドビュッシー(同1862年)と、ほぼ同世代。

 

 

 

42の部屋 「タラのテーマ」

 

1939年(昭和14年)に製作されたアメリカ映画「風と共に去りぬ」のテーマ曲です。

 

映画の原作は、マーガレット・ミッチェル1900-1949)が書いた小説Gone with the Wind」で、世界各国でも翻訳された超ミリオンセラーです。

 

映画は上演に4時間がかかる大作で、前編と後編で構成されています。主演は、スカーレット・オハラ役がヴィヴィアン・リー、レット・バトラー役がクラーク・ゲーブル。

監督はヴィクター・フレミングで、彼には他に「オズの魔法使い」などの作品があります。

 

テーマ曲『タラのテーマ

圧倒的な存在感があるメロディーです。映画の中では、先ずオープニングタイトルで出てきて、その後も繰り返し流されます。作曲者は「キングコング」や「カサブランカ」など多数の映画音楽を手がけたマックス・ スタイナーです。「風と共に去りぬ」では、アカデミー作曲賞の候補になったものの、惜しくも受賞は逃しました。

 

物語の舞台は、アメリカ南部のジョージア州アトランタ近郊にあるタラという農村。農村とは言っても、多数の黒人奴隷に綿花を栽培・収穫させるプランテーション(大規模農場)が並んでいる所です。ただし、「タラ」は架空の地名です。この場所に絡む場面で演奏されるのがタラのテーマ』です。

 

因みに、やはり映画音楽で、よく似た名前のララのテーマ」があります。こちらは1965年のアメリカとイタリアの合作映画「ドクトル・ジバコ」の挿入音楽です。この曲も名曲です。

 

『物語の概要』

この物語の大まかな内容は、次の通りです。

アメリカ南北戦争(1861年~1865年)開始直前からお話が始まる。主人公は、プランテーション経営者で大富豪の令嬢であるスカーレット・オハラ(当然ながら、スカーレットが住むジョージア州は南軍側)。戦争がはじまると、結婚したばかりの夫が戦場で病死する。

スカーレットは南北戦争で身近な人々から離され、進軍してきた北軍によって屋敷も大農園も荒らされる。命からがら生き延びるが、母や財産を失う。北軍への恨み。貧乏から抜け出すために男たちの愛を利用していく…等々、愛や戦争、時代の変化に翻弄されながらも、逞しく生き抜いていく。

 

 

 

40の部屋 「起立、礼、着席」考

 

私たちの楽団では、練習の開始と終了時にピアノの伴奏に合わせて起立し、礼をしながら「よろしくお願いします」(練習終了時には「有難うございました」)と言い、そして着席します。勿論これは、学校時代の号令というか儀式というか、とにかく一連の行動である「アレ」に基づいて(或は、真似て)やっているわけです。

では、そもそも

①「アレ」は、何と呼ばれるものなのか?

②「アレ」は、海外でもやっているのか?いつ頃から始められたのか?

③伴奏のピアノの和音(コード)は決まっているのか?

・・・ふと疑問が湧き起ってきたので、調べてみました。

 

①名称

「アレ」の呼び名は各種あり、「一同礼」が比較的多いようですが、「修礼(しゅうれい)」「典礼」「一同敬礼」「一統敬礼」など様々で、地域によっても異なります。なお「修礼」は北海道から北関東までの東~北日本に分布しているようです。また、特段の名前はなく、そのまま「起立、礼、着席」と言っている学校も多いと思われます。

 

「アレ」の一連の動作の中で号令を掛けます。多くは「起立、礼、着席」のようですが、「立つ、礼、直る」など派生形がいくつかあり、地域差も見られます。新潟、富山、石川などでは「起立、気をつけ、礼、着席」と、途中に「気をつけ」が入ります。また、群馬や宮城では「起立・注目・礼」、沖縄では(座ったまま)「正座・礼」、鹿児島では「起立・姿勢・礼」と言うのが一般的だそうです。このほか、「起立、礼」だけで「着席」を言わない形式もあるようです。ただし、同じ地域でも学校によって異なることもあり、かなり複雑です。

 

②歴史

たまたま読んだ本に、以下のような説明がありました。

『 近代的な学校教育が始まった明治時代、音楽教育の在り方を研究するため、教育関係者がドイツに視察に行った。

当時、ドイツの学校の音楽の授業では、生徒に歌を唄わせる前に曲の「調」に合わせて3音から成る和音(例えば、ド・ミ・ソ)をピアノで弾いて聞かせる習慣があった。

それを見聞きした日本の視察団は、その和音は授業を始める合図だと勘違いしてしまった。その結果、日本の授業の前後の「起立、礼、着席」の際にピアノやオルガンで和音を鳴らすことになり、これが日本の学校教育に定着していった』

 

こうして「アレ」は現在に至っているのですが、最近は「アレ」の号令やお辞儀を「軍隊的で平和主義に反する」と考える人がいて、学校では行わなくなっていく傾向にあるようです。

 

 

③伴奏のピアノの和音

これには、いくつかの種類があるようですが、一般的には、

「起立」と「着席」

右手 :ド・ミ・ソ・ド     あるいは  ミ・ソ・ド

左手 :ド・ド(オクターブ)        低いド

「礼」

右手 :レ・ファ・ソ・シ    あるいは  ファ・ソ・シ

左手 :低いソ・ソ(オクターブ)      低いソ

 

なぜ、この和音の組み合わせが使われるのか?

ネットで音楽理論のページを見ていたら、次のような説明がありました。

「ド・ミ・ソ・ド(あるいは ミ・ソ・ド)」は「トニック」と呼ばれる、落ち着いて緊張がない和音。曲の終わりに使われます。

一方、「レ・ファ・ソ・シ(あるいは ファ・ソ・シ)は「ドミナント」という、落ち着かない緊張感がある和音です。

 

1つ目の和音で起立。体の姿勢は安定しています。和音も落ち着いた響きです。

2つ目の和音で礼をします。体を前に傾けるため不安定な姿勢です。和音も緊張感があります。

そして最後に着席。体も和音も落ち着きます。なるほどね。

 

ちなみに、我が楽団でPF―Kさんが弾いているのは?…ということで、ご本人にお尋ねしたところ次の通りでした。

 

「起立」と「着席」

右手 :ミ・ソ・ド

左手 :ド・ド(オクターブ)

「礼」

右手 :レ・ファ・ソ・シ

左手 :低いソ(1音)

 

但し、あまりにも練習の内容が悪かった時には、最後の「着席」の和音をマイナーコードの「ミ♭・ソ・ド」として、‘情けなさ、寂しさ’を表現する場合があるそうです。聞かないで済むように頑張りましょう。

 

 

 

39の部屋  「野ばら (Heidenröslein)」 

ハインリッヒ・ヴェルナー(Heinrich Werner作曲

 

童(わらべ)は見たり 野なかの薔薇
清らに咲ける その色愛(め)でつ
飽かず眺む  紅匂う 野なかの薔薇

 

この歌詞も題名も同じ二つの有名な曲がある「野ばら」。一つは歌曲王と呼ばれるシューベルト(17971828年)のリズミカルな旋律の曲。もう一つは、ヴェルナー(18001833年)のゆったりとした感じの曲です。小学校の合唱等で歌われるのは、ほとんどがヴェルナーの方だったと思います。

この二人は、シューベルトがオーストリア、ヴェルナーがドイツの人という違いはあるものの共通点が多く、同年代(3歳違い)の人であり、共に父親が教師で、本人たちも学校の教員をしながら作曲をして、シューベルトが31歳、ヴェルナーが32歳とほぼ同じ年齢で亡くなっています。

元の歌詞は、ドイツの文豪・詩人のゲーテの同名の詩(つまり「野ばら」)で、それに曲を付けたのがこの二つの歌曲です。二曲が題名も歌詞も同じであるのは、このためです。それどころか、このゲーテの詩「野ばら」は大変な人気があり、この詩に曲を付けたものは上記の二曲の他に100曲以上もあるようです(ベートーベンやブラームスも)。そもそも、ゲーテの作品は音楽の題材として好んで用いられ、ワーグナーやベルリオーズ、マーラーの管弦楽曲(いずれも「ファウスト」がテーマ)などにも見られます。

我々が耳にする日本語の歌詞は、近藤朔風(18801915年)という訳詞家のもの。彼の訳詞には、他にハイネの詩による「ローレライ(なじ~かは知らね~ど~♪)」などがあります。

 

 ところで、この曲の題名や歌詞の「野なかの薔薇♪」から、頭の中に、花屋さんで見かけるような八重咲のバラの花が、野原に1~2本咲いている景色を描きがちです。しかし、ここで唄われている「野バラ」とは、「ロサ・カニーナ(和名:イヌバラ)」と呼ばれるヨーロッパや北アフリカの山野に自生する蔓性の品種の薔薇です。野バラの花は、大抵5弁の花びらの一重咲きで、豪華な八重咲きの品種と比べて、小さく可憐で素朴です。だからこそ歌詞の「清らに咲ける♪」となるのです。

 

八重咲のバラ      ロサ・カニーナ

 

 

ところで、小学校の低学年の時、歌詞「あ~かず~なが~む♪」の箇所の意味が分からず、「この歌は『赤砂ガム』または『赤綱ガム』のCMソングなのだろうか?…でも、何か変だなぁ~」と考えていました。因みに、当時は明治、森永、江崎グリコ、不二家、ロッテ、カバヤ、コリス、ハリス等、チューインガムのメーカーが乱立していました。これが「飽かず眺む」であると理解したのは、中学校で古文の動詞の活用を学んでからでした。

 

 

 

37の部屋   『オリンピック・マーチ』 古関裕而 作曲

1964(昭和39)年1010日(土曜日)、晴れ渡る青空のもと(前日までは台風の影響で大雨だった)、国立競技場で東京オリンピックの開会式が催されました。

 午後150分、各国の国旗が「オリンピック序曲」(作曲:團伊玖磨)に合わせて一斉に掲揚され(スタンド周辺のポールに)、天皇陛下臨場、日本国歌演奏に続き、午後2時から選手団の入場行進が始まりました。

行進の先頭は、オリンピック発祥の地であるギリシャ。その後は、国名の英語表記でアルファベット順に(アフガニスタンから最後のユーゴスラビアまで)各国の選手団が入場。開催国の日本は、殿(しんがり)の94番目で入場しました。

 

陸上自衛隊中央音楽隊による「オリンピック・マーチ」は、ギリシャが入場する時から演奏され、「オリンピック・マーチ」の後は、世界の有名な行進曲を次々とメドレー的に演奏。入場順が89番目のアメリカ(USA)と90番目のソ連(USSR)の選手団が入場する頃から再び「オリンピック・マーチ」 に戻り、最後の日本選手団が入場し終わるまで演奏されました。品格のあるメロディーと躍動感溢れるリズム。コーダ部の最後の4小節に織り込まれた「(開催地が日本であることを暗示する)君が代」の旋律。これらは、多くの聴衆に一度聴いたら忘れられない、極めて強い印象と感動を与えました。

 

この行進曲を作曲した古関裕而は、1909 (明治42)年、福島市の呉服店に生まれます。裕福で音楽好きな家族の影響を受け、ハーモニカ演奏や作曲に興味を持つようになりました。商業学校を卒業後、銀行に就職しますが、ほぼ独学で作曲の勉強も続けていきます。彼が作曲した管弦楽のための作品が海外で入賞したのを機に、日本コロムビア()に作曲家として入社。以後、作曲を続けていきました。作品はスポーツ・ラジオドラマ・軍歌・歌謡曲・校歌(応援歌)など多岐に亘り、五千曲に及ぶと言われています。1989(平成元)年没。

主な作品は以下の通りです。

 

紺碧の空 早稲田大学応援歌

カレッジソング」東京農業大学応援歌

「六甲颪(おろし)」大阪(阪神)タイガースの歌

「野球の王者」及び「闘魂こめて」読売巨人軍の歌

「露営の歌」軍歌(♪勝ってくるぞと 勇ましく…)

「暁に祈る」映画主題歌、戦時歌謡(♪ああ、あの顔であの声で…)

「若鷲の歌(予科練の歌)」映画『決戦の大空へ』の主題歌、軍歌

(♪若い血潮の 予科練の 七つボタンは 桜に錨…)

「高原列車は行く」歌謡曲 歌:岡本敦郎(♪汽車の窓から ハンケチ振れば …)

「とんがり帽子」ラジオドラマ「鐘の鳴る丘」主題歌 歌:川田正子

(♪緑の丘の赤い屋根…鐘が鳴りますキンコンカン…)

「栄冠は君に輝く」夏の全国高等学校野球選手権大会の歌(♪雲は湧く 光あふれて…)

「長崎の鐘」歌謡曲 歌:藤山一郎(♪こよなく晴れた青空を…ああ長崎の鐘が鳴る)

「スポーツショー行進曲」NHKスポーツ中継番組のオープニング・テーマ曲

「君の名は」映画主題曲

「モスラ」怪獣映画主題曲

「ああ中央の若き日に」中央大学応援歌

千葉県立 国府台高等学校校歌(市川市)

 

なお、ファンファーレは、天皇陛下の開会宣言の直後の253分頃に、聖火台の下で吹奏されています。作曲したのは今井光也。当時、三協精機製の技術者で、アマチュア・オケ諏訪交響楽団のフルートとホルンの奏者兼指揮者だった人です。JOCとNHKが一般公募した「ファンファーレの曲」に応募し、応募数414作品の中から選らばれました。因みに、使用された楽器は、日本管楽器(株)が特別に製作したファンファーレ専用トランペットB管)でした。

 

 

 

36の部屋   「夕陽に赤い帆Red Sails In The Sunset

作曲:ヒュー・ウィリアムス18941939

 

ジミー・ケネディ(作詞)とヒュー・ウィリアムス(作曲)の二人のイギリス人よって、1935年(昭和10年)に作られた曲です。

作詞をしたジミー・ケネディ(Jimmy Kennedy)は非常に多くの作品を手掛け、他に「カプリ島の唄」、「ハーバーライト(港の灯)」、など後世に残る作詞をしています

作曲したヒュー・ウィリアムスは、本名をヴィルヘルム・グロシュ (Wilhelm Grosz)といい、オーストリア・ウィーン生まれのピアニスト、作曲家、指揮者です。本来はオペラやバレエなどのクラシック曲の作曲家ですが、1934年に英国に移住して、作詞家・ケネディとのコンビでポピュラー音楽を手がけるようになりました。前述の「カプリ島の唄」や「ハーバーライト」も彼の作曲です。

 

アイルランドの北海岸に、毎年「Red Sails Festival(赤い帆の祭)」が開催されるポーツチュワート(Portstewart)というリゾート地があります。「夕陽に赤い帆」の歌詞は、ケネディがそこで見た、ヨットの「赤い帆」から受けた強い印象を元に作られたとされています。

 

曲は、1935年にレイ・ノーブル楽団がアメリカに紹介して、たちまち世界でヒットし、1960年代にプラターズ(※1)やファッツ・ドミノ(※2)がカバーして、リヴァイバル・ヒットしました。

 

1アメリカのコーラス・グループ。代表曲は「オンリーユー」

2 アメリカのロックンロール歌手

 

歌詞は以下の通りです(訳は少々間違っているかも)。

 

Red sails in the sunset, way out on the sea

夕暮れ時に赤い帆が海の向こうへ出て行く

 

Oh, carry my loved one home safely to me

ああ、愛する人を無事に家へ連れ戻しておくれ

 

She sailed at the dawning, all day I've been blue

彼女は夜明けに船出し、僕は一日中ずっとブルーな気分だ

 

Red sails in the sunset, I'm trusting in you

夕暮れ時の赤い帆よ、僕はお前を信じている

 

Swift wings you must borrow

速く飛べる翼をあなたは借りなきゃ

 

Make straight for the shore

真っ直ぐ海岸に向かえ

 

We marry tomorrow

明日、僕らは結婚する

 

And she goes sailing no more

もう、彼女が船で海に出て行くことはない

 

Red sails in the sunset, way out on the sea

夕暮れ時に赤い帆が海の向こうへ出ていく

 

Oh, carry my loved one home safely to me

ああ、愛する人を無事に家へ連れ戻しておくれ

 

 

 

35の部屋   「茶色の小瓶」

作曲:ジョセフ・ウィナー(Joseph Winner18371918

 

1869年(※1)にアメリカの音楽家ウィナーによって作られた曲です。

この曲は、大量の飲酒が大好きな夫婦の様子を歌ったもので、この夫婦は

(酒のために)友達を失っても、古着を纏うほど生活に困窮しても

全くお構いなし…という有様。

陽気な曲なので発表当時から人気を博し、アメリカ民謡になっています。

作曲から70年後の1939年(※2)、グレン・ミラー楽団によって

スイング・ジャズ化され、世界的に有名となりました。今ではジャズの

スタンダード・ナンバーになっています。

 (※1:日本では、戊辰戦争が終結した年  ※2:第二次世界大戦が始まった年)

 

また、明るく覚えやすいメロディーであるため、子供向けに改作した

歌詞でも歌われ、学校の音楽でも取り扱われる曲となっているようです。

さらに、テレビのCMに使われることも多く、前述のように大酒飲みの歌なので、

酒類のCMに多用されています。最近ではキリンビール「一番搾り」のCMに(ダサい)替え歌で登場しています。

 

原曲の歌詞は、以下の通りです(1番のみ記載)。これにより、

「茶色の小瓶」とは、洋酒(多分、ラム酒)が入った瓶であることが判ります。

.

My wife and I lived all alone      

In a little log hut we called our own;
She loved gin, and I loved rum,
I tell you what, we'd lots of fun.

妻と僕だけで、小さな丸太小屋で気ままな生活さ

彼女はジンが、僕はラムが大好き

なんたって、メチャ楽しいのさ

 

Ha, ha, ha, you and me,
" Little brown jug" don't I love thee;
Ha, ha ha, you and me,
" Little brown jug" don't I love thee.

ハッハッハッ 君と僕

茶色の小瓶よ、お前なんて嫌いだよ(本当は大好きだ)

 

 

33 の部屋  エデンの東

 

スタインベックが書いた小説を原作としたアメリカ映画の主題曲です。スタインベックは「怒りの葡萄」でも知られるアメリカの小説家です。

「エデンの東」の小説は1952(昭和27)年に出版。映画は1955)年に公開されています。

映画の主演はジェームズ・ディーン。格好良いおニイさんでしたが、映画が公開された同じ1955年に自動車事故で亡くなりました。24歳でした。

主題曲を作曲したのはレナード・ローゼンマンで、この「エデンの東」同様にジェームズ・ディーンが主演した「理由なき反抗」の音楽も彼の作品です。また、「続・猿の惑星」「ミクロの決死圏」「ロボコップ2」などのSF物にも作品が多く見られます。

 

《物語の概要》・・・「エデンの東」とは?

 

第一次世界大戦前後の米国カリフォルニア州の小都市が物語の舞台で、家族の愛に飢える孤独な青年の姿を描いた作品。兄に劣等感と嫉妬心を持ち、父からも愛されない双子の弟(ジェームズ・ディーン)が主人公です。

この物語の下敷きになっているのが旧約聖書の「カインとアベル(※)」の話です。罪を犯したカインがエデンの東の方向にあった「ノデ」という地に追放されます。

つまり『エデンの東』とは、「流浪の地」や「追放の地」を暗示する語なのです。

 

※「カインとアベル」

カインとアベルは、アダムとイヴの子供。カインは農耕を、アベルは羊飼いをするようになった。ある日、カインは収穫物を、アベルは肥えた羊を神に捧げたが、神はアベルの供物に目を留めたものの、カインの供物は無視した。この事に嫉妬して恨みに思ったカインは、野原でアベルを殺す。この罪により、カインは主の前から去って、エデンの東にあるノデの地に住みついた。

 

 

 

32 の部屋

組曲「ペール・ギュント」  グリーグ

 

ノルウェーの国民的作曲家 エドヴァルド・グリーグ(1843-1907)の代表作で、同国の劇作家イプセンが書いた詩劇『ペール・ギュント』に、グリーグが劇音楽として作曲したものです。詩劇を書いたイプセンは「人形の家」などの作品でも知られています。

劇音楽は1876年に初演されましたが、後、グリーグはその中から特徴的で優れた曲を選び演奏会用の「組曲」として編集しました。組曲は下記のように、第1と第2の組曲から成り、各4曲、計8曲で構成されています。

 

1組曲

 ①朝  ②オーゼの死  ③アニトラの踊り  ④山の魔王の宮殿にて

2組曲

①イングリッドの嘆き  ②アラビアの踊り ③ペール・ギュントの帰郷

④ソルヴェイグの歌

 

《物語のあらすじ》

主人公ペール・ギュントは、貧しい未亡人オーゼの一人息子だが、仕事嫌いの上に乱暴者で、夢想家の大法螺吹きだった。

ペールにはソルヴェイグという純情な恋人がいた。にもかかわらず、ある日、結婚式場から花嫁であるイングリッドを奪って逃げてしまう。ペールはイングリッドと山の上で同棲するが、すぐに飽きて彼女を捨てて放浪の旅に出る。

神秘的な山で魔王の娘を追っかけて魔物が住む宮殿に入り、魔物たちに散々な目にあわされ、逃げる。山中でソルヴェイグに救われ、一緒に山小屋に住む。しかしペールは、そのソルヴェイグも捨てて故郷に帰る。故郷の母オーゼの死が迫っていた

母の死後、ペールはアフリカ(モロッコ)に渡り、砂漠の部族から予言者として迎え入れられ、巨万の富を獲得する。その財産を狙って酋長の娘アニトラが魅力的な踊りで誘惑して財産を全部奪い、ペールを砂漠に置き去りにしてしまう。ペールは、その後も数々の冒険をして、カリフォルニアで再び億万長者になる。

歳月が流れ、老人となったペールは帰郷する。その途中、ノルウェー沖合で嵐のために乗船が難破し、財産を失う。故郷にたどり着いたペールは彼の帰りを待っていたソルヴェイグに会う。ソルヴェイグは彼の過去を許し、やがてペールはソルヴェイグの胸に抱かれつつ、息を引き取る。

 

なお、第1組曲の各曲は、次の内容を表現しています。

 ①朝 

モロッコにあるサハラ砂漠の日の出の情景と明澄な朝の気分

 ②オーゼの死  

ペールの年老いた母オーゼの死と悲しみ

③アニトラの踊り  

酋長の娘アニトラが踊る、妖しく官能的な舞曲

④山の魔王の宮殿にて

魔王の子分のトロル(北欧神話や民話に出てくる精霊・小鬼)たちが集まり、

魔王の娘を弄んだペールを殺せと、殺気立って荒々しく叫ぶ

 

 

 

31 の部屋

蒼いノクターン

 

『恋はみずいろ』など、数多くのイージー・リスニングで知られる、ポール・モーリアPaul Mauriat1925 - 2006年)の代表作の一つです。

ポール・モーリアは、フランスの作曲家やピアニスト、チェンバロ奏者。また、彼が率いるポール・モーリア・グランドオーケストラの指揮者でもありました。

グランドオーケストラで演奏される曲目の作曲者は、ポール・モーリアだけではなく、他の人である場合も多々ありますが、この「蒼いノクターン」はポール・モーリア自身が作曲した曲です。

「ノクターン」は「夜想曲」とも称され、夜の情緒を表現した楽曲です。ショパンの「ノクターン」が一般によく知られ、主としてピアノのための曲であるようなイメージがありますが、ドビュッシーの「夜想曲」など管弦楽曲にも作品が見られます。

「蒼いノクターン(夜想曲)」の語感から、青白い月の光に浮かぶ夜の情景を想い描きます。しかし、原題はただの「Nocturne(ノクターン)」。「蒼いノクターン」は日本での所謂‘邦題’です。誰が「蒼い」を付け加えたのか、気になります。

 

このような例は非常に多く、ポール・モーリアの曲でも次のものがあります。

 

〈邦題〉         〈原題〉

天使のセレナード      La Chanson Pour Anna(アンナの歌)

白い渚のアダージョ     Le Piano Sur La Vague(波の上のピアノ)

薔薇色のメヌエット     Minuetto(メヌエット)

涙のトッカータ        Toccata(トッカータ)

エーゲ海の真珠       Penelope(ペネロペ=ギリシャ神話に登場する女性)

 

 

 

30 の部屋

 

ベートーヴェン「交響曲第7番」

 

ベートーヴェンが42歳であった1812年に完成し、翌年12月、ウィーンでベートーヴェン自身の指揮で初演されました。

 

交響曲第6番「田園」と第9番「合唱」とに挟まれた第7番と第8番は、標題が付いていないために比較的‘地味’な存在かもしれません。しかし、この「第7番」は古典的で保守的な楽器編成(2管編成※)ながらも、作曲の手法、構成と表現に至るまで、ベートーヴェンの9つの交響曲の中で、最も完成度が高い作品だともされます。

 

「リズムの交響曲」とも言われ、第1楽章から第4楽章まで、各楽章それぞれ特徴的なリズムが展開されます。第1楽章は、テレビドラマ「のだめカンタービレ」の主題曲としても使われました。

2楽章は、同音が反復され続けるのにもかかわらず、極めて厳粛で美しい旋律が繰り広げられ、「単純の美」、「不滅のアレグレット」と呼ばれています。葬送行進曲風な雰囲気がありますが、速度記号が「アレグレット(やや快速に)」であるのに加え、交響曲第3番「英雄」第2楽章ではベートーヴェン自身が楽譜に「Marcia funebre葬送行進曲)」と書き込んでいるのに対し、第7番にはそのような記述はありません。従って、葬送行進曲ではないと解釈されるのが一般的であるようです。そもそも、第7番は、全体に明るくエネルギッシュな旋律が際立っている曲で、暗く重たい雰囲気があるベートーヴェンの他の交響曲とは、対照的です。

 

※:フルート、オーボエ、クラリネット、ファゴットが各2名、さらにホルン、トランペットも各2

 

 

 

29 の部屋

シング・シング・シングSing Sing Sing

 

1936(昭和11年に作曲されたスウィング・ジャズのスタンダード曲です。

作曲者のルイ・プリマLouis Prima 1911 – 1978)は、アメリカの歌手でありトランペット奏者であり作曲家です。ジャズの発祥地であるルイジアナ州ニューオリンズに生まれました。

Sing Sing Sing」は、クラリネット奏者の ベニー・グッドマン(Benny Goodman)が率いるベニー・グッドマン楽団が、1938 (昭和13 年にNY・カーネギーホールで演奏して広く世に知られるようになり、以後、同楽団の代表曲という存在になっていきました。

スウィング・ジャズは、‘世界大恐慌(192933年)から第二次世界大戦へと展開していく、暗い時代に大流行しました。街には失業者が溢れ、その人々の閉塞感を癒す音楽であったとも言われています。

Sing Sing Sing」には歌詞があり、冒頭の部分は以下の通りです。これを見ると曲想が把握し易いですね。

 

 

Sing sing sing sing.    歌え、歌え、歌え、歌え

 

Everybody start to sing.   みんな歌い始めろ

 

Now you're singing with a swing  さあ、スウィングしながら歌おう!




28 の部屋

ラヴァーズ・コンチェルトA Lover's Concerto

作詞作曲:サンディ・リンザー  デニー・ランドル

 

1965年にアメリカの3人の女性で構成されるガールズ・グループ「ザ・トイズ」が歌って、人気チャート全米第2位を獲得したことがある、ポピュラー・ソングです。その後、多くの歌手やグループがカバーしていて、日本でも金井克子や尾崎紀世彦、薬師丸ひろ子などが歌ってきました。作詞作曲は、ソングライターのチームを組むサンディ・リンザーとデニー・ランドル。ただしこの曲は、クリスティアン・ペツォールトが作曲した鍵盤楽器のための小品『メヌエット』を基にしています。

クリスティアン・ペツォールト16771733年)は、ドイツ・バロック音楽の作曲家、オルガン奏者で、JSバッハとほぼ同時代の人です。

なお、「ラヴァーズ・コンチェルト」の歌詞の内容は以下の通りです(最初の一部だけ掲載、意訳を付けておきました)。

 

How gentle is the rain  That falls softly on the meadow

草原に優しく降る雨はなんて穏やかなのだろう


Birds high up in the trees
 Serenade the flowers with their melodies
鳥たちが木々の高い所から 彼らのメロディーで花々にセレナーデを歌う

Oh, see there beyond the hill The bright colours of the rainbow

ほら、見てごらん、あの丘の向こうを 色鮮やかな虹が見えるよ

Some magic from above  Made this day for us just to fall in love

天からの魔法が    今日、私たちが恋に落ちるようにした

 

 

27 の部屋

ワルツィング・キャットThe Waltzing Cat・踊る子猫)』 

作曲:ルロイ・アンダーソン

 

シンコペーティッド・クロック(The Syncopated Clock)が作曲されたのが1946年。「ワルツィング・キャット」は、その5年後の1950年に、同じルロイ・アンダーソンによって作られた曲です。「アメリカ軽音楽の巨匠」アンダーソンは、アーサー・フィードラー指揮のボストン・ポップス付きの作曲家として、数多くのコミカルで親しみやすい曲を作曲しましたが、この曲もその一つです。

バイオリンのポルタメント(※)や管楽器などのグリッサンド(※)が猫の「ニャーオ」という可愛い鳴き声を表現し、弦楽器のピチカート奏法や管楽器のスタッカートが、猫が軽やかに跳ね回る様子を表していて、子猫たちが楽しく遊ぶ景色を描いています。最後は、犬に吠えられて子猫たちが一目散に逃げ出します。

 

※「グリッサンド」と「ポルタメント」

『ポルタメント (portamento)』"port."

ある音から他の音へ、跳躍的・音階的でなく、継続的に音を滑らせる様に移る演奏技法。声楽や弦楽器、トロンボーン、スライドホイッスル等で演奏可能な表現方法。一般に、

前の音から後の音へ移る直前まで待って)後ろの音に変わる直前に滑らせます。イタリア語で「運ぶ」という意味です。

 

『グリッサンド(glissandogliss. "

ある音から他の音へ、中間の音を音階的に全て鳴らしながら指を滑らせる演奏方法。主に鍵盤楽器などで行われます。前の音から後ろの音までは、均等の速さで滑らせます。イタリア語で「滑るように」という意味です。

 

 

 

25の部屋  『シンコペーティッド・クロックThe Syncopated Clock)』

作曲:ルロイ・アンダーソン

 

syncopate(シンコペート)」は、リズムや拍、アクセントを意図的にズラして意外感など一定の効果を得る手法のこと。規則正しく一定の間隔で時を刻んでいくはずの時計の音が、完全に狂っている(out of order)程ではないのだけど、なぜか時々ズレている。この様子をコミカルに描写した曲です。

太平洋戦争が終わった翌年の1946年に作曲され、アーサー・フィードラー指揮のボストン・ポップス・オーケストラによって演奏されました。

作曲は、アメリカの作曲家であり言語学者(ハーバード大学博士号)でもあったルロイ・アンダーソン(Leroy Anderson 19081975年)」。彼の作品には「タイプライター」(旧式のタイプライターの作動音を模した曲)があり、軽快でユーモアに富んだ曲調が彼の作品の特徴です。また、「トランペット吹きの休日」も親しみやすい有名な作品で、彼は「アメリカ軽音楽の巨匠」とも称されています。

 

曲の中で活躍するのが打楽器です。

曲が始まると、すぐに‘カッカッカッカッ’と正確な秒針の動きを表現し、時々転ぶようにシンコペーションが入るのは「ウッド・ブロック」。中間部で鳴る目覚まし時計のベルの音は「トライアングル」。曲の最後の箇所で一瞬入る‘カン’という音は「カウベル」(本来は牛の首のベル)。‘ヒューイッ’という音は「スライド・ホイッスル」です。これらによりユーモラスさが盛り上がります。

 

[ウッド・ブロック]  

 

 

[スライド・ホイッスル]

 

 

 

[カウベル]

 

 

 

 

 

24の部屋  喜歌劇「こうもり(Die Fledermaus)」

 

『美しく青きドナウ』『ウィーンの森の物語』などの作品で知られるヨハン・シュトラウス2世が1873年に作曲したオペレッタ(喜歌劇)です。その物語の面白さと音楽の美しさから、ウィンナ・オペレッタの最高傑作とされ、ドイツやオーストリアでは、大晦日や新年のイベントとして、しばしば上演されます。

 

《あらすじ》

ファルケ博士は、その日に開かれる仮面舞踏会の場で、友人である銀行家のアイゼンシュタインに、かつてされた悪戯への仕返しをしようと企む。その悪戯というのは、二人が参加した過去の舞踏会で、「こうもり」の仮装をしたファルケ博士が酔っぱらって道端で寝てしまったのをアイゼンシュタインに置いていかれたことだ。以後、彼は「こうもり博士」という不本意な渾名を付けられてしまった。

仮面舞踏会では、みんな浮気者で異性を口説いたり口説かれたり。変装したアイゼンシュタインも女性を口説くが、相手は迂闊にも変装したアイゼンシュタインの妻ロザリンデだった・・・その他にも様々な展開があり・・・妻ロザリンデも元カレと不倫を計画しており、ひょんなこと(ファルケ博士が仕組んだ罠)からそれを知ったアイゼンシュタインは、翌日、ロザリンデを問いつめる。しかし彼女も昨夜の舞踏会での夫の行為を非難。そこにファルケ博士が現れ、「これが私の仕組んだこうもりの仕返しだ」と暴露する。

 

 

Du und Du】(編曲のベースになっている曲)

 

Du und Du (ドイツ語で「あなたとあなた」・英語のYou and You)は、シュトラウス自身が彼の喜歌劇「こうもり」の中から代表的な7つのワルツ曲を選んで、一つの曲にしたものです。バレエ曲の中から「花のワルツ」など8曲を選んで組曲にした「くるみ割り人形」などと少し似た手法です。シュトラウスは、度々、彼の作品からワルツを取り出して、それらを編曲した上で本来の曲とは別に出版しており、このDu und Duもその一つです。

 

 

 

話題21. 曲目解説 『フニクリ・フニクラ(Funiculi, Funicula)』

                       作曲:ルイージ・デンツァ  

 

 世界で一番古いコマーシャルソングだとされる曲です。

1880(明治13)年、イタリア・ナポリ湾岸にある「ヴェスヴィオ火山」の山麓から火口付近までのケーブルカー(登山電車)が開通しました。ケーブルカーの運営会社が集客のためにCMソングを作って宣伝することになり、イタリア生まれの作曲家でロンドンの音楽院の教授をしていたルイージ・デンツァに依頼してできたのが、この曲です。

「フニクリ・フニクラ」は、このケーブルカーの愛称です。ケーブルカーは、イタリア語ではフニコラーレ(funicolare)、英語ではフニクラー(funicular)ですので、これをもじって付けた名称だと思われます。ちなみに、日本で言うケーブルカー(cable car)は、海外ではロープウエイのことです。

「ヴェスヴィオ火山」とは、古代都市ポンペイを火山灰などで埋没させた、あの有名な火山です。直近では1944年にも噴火しており、ケーブルカー「フニクリ・フニクラ」はこの時に壊滅的被害を受け、営業を終えました。

日本では1961(昭和36)年にNHKの「みんなのうた」で紹介され、その後「鬼のパンツ」などの替え歌が多く作られたのは、ご存知の通りです。

 

 

 

話題20. 曲目解説 『真珠採りのタンゴ』 

                  作曲:ビゼー  編曲:アルフレッド・ハウゼ

  

この曲、元々はオペラ「カルメン」や組曲「アルルの女」等で知られるフランスの作曲家ビゼーが作曲したもので、オペラ「真珠採り」の中の1曲「耳に残るは君の歌声」です。テノールのアリアとして歌われます。

 オペラ「真珠採り」の物語は、セイロン島を舞台に、美しい尼僧となって島に戻ってきたヒロインと、恋敵だった二人の漁師の男(真珠採り)が中心になって展開していく恋と悲劇・・・といった内容です。

  この曲を元に、ドイツのアルフレッド・ハウゼがタンゴ風に編曲したのが「真珠採りのタンゴ」で、全世界的に流行し、原曲であるビゼーのオペラよりも有名になりました。彼が主宰するアルフレッド・ハウゼ楽団はコンチネンタルタンゴを得意とし、「ラ・クンパルシータ」も同楽団のヒットナンバーです。

 

 

 

話題19.  曲目解説 『東京ブギウギ』

                          作詞:鈴木勝  作曲:服部良一   

 

1947(昭和22)年発表、レコード発売は翌年の1月。笠置シヅ子が歌って大ヒットしました。「青い山脈」(歌:藤山一郎)、「リンゴの唄」(歌:並木路子)などと並んで、終戦直後の日本の世相を象徴する歌謡曲として有名です。笠置はこの曲のヒットの後、『大阪ブギウギ』『名古屋ブギ』や『買物ブギ』などのブギシリーズを歌い、ブギの女王と言われるようになりました。

  ところで、ブギウギ(boogiewoogie)とは、そもそも何なのか?・・・よく知らないのでNETで調べてみると、次のように書いてありました。

  1920年代後期にシカゴで流行した、ピアノによるジャズのブルース演奏スタイルの一種。主に黒人が踊っていたダンスの一種でもある。4拍子のシャッフルやスイングのリズムによる反復フレーズで、テンポの速い陽気なジャズピアノ曲』

 

でも、この説明だけでは、どんな音楽を言うのか具体的にハッキリ分かりません。だれか説明できる人、教えて下さい。

  ついでに「Boogie」を英和辞書で引くと、こう書いてありました。名詞としては、けっこうヒドイ意味が含まれているようです。 

   【Boogie】 [:gi

  [名詞]

    1  (俗・軽蔑語で) 黒人

    2  = boogie-woogie.

    3  (俗語で)鼻くそ

     [動詞]

         1   ロックに合わせて激しく踊る

         2   急いで行く

 

 

 

話題18.  曲目解説 『ソラメンテウナベス』

 

 「ソラメンテ・ウナ・ベス」これはスペイン語で「Solamente Una Vez」と書くようです。私はスペイン語を全く知らないので辞書を引くと、

   Solamente は、ただ一つの  唯一の  ~のみ(英語の only )

   Una は不定冠詞 (英語の a  an に相当) 

   Vez は、時間。 (英語なら time ) です。

 これにより「 Solamente Una Vez 」は、「ただ一度だけ」という意味になるらしいです。

  この曲は、メキシコの大作曲家でありボレロの演奏家であった アグスティン・ララ

Agustín Lara1897–1970年)が、1941年に映画音楽の挿入歌として作曲しました。

「ただ一度です 愛しました 人生で 」といった調子の歌詞が続き、一途な愛と人生の寂寞を歌ったものとされています。当時、メキシコやキューバで非常な人気を博しました。なお、ドナルドダックが主人公のディズニー映画「三人の騎士」(1944年公開)の中でも、この曲が使われています。

 

 

 

話題17. 曲目解説 『カントリーソング・メドレー』

  

今、取り組んでいる『カントリーソング・メドレー』は、「カントリー・ロード」 「幸せの黄色いリボン」 「ジャンバラヤ」の3曲によって構成されています(と、Fl-Tさんに教えてもらいました)。 では、それぞれどんな曲なのか

 

1. カントリー・ロード

 原題名は『Take Me Home, Country Roads』。1971年にアメリカのシンガーソングライターであるジョン・デンバー(John Denver 19431997年)によって歌われ、全米で大ヒットした曲です。

歌の内容は、米国の東海岸の中央に位置するウエストバージニア州の情景と望郷の念を歌い込んだものです。その後、多くの歌手によってカバーされていますが、日本ではジブリの映画『耳をすませば』の挿入歌としても有名です。

 

2. 幸せの黄色いリボン

原題は「Tie a Yellow Ribbon Round the Old Oak Tree(古いオークの木の幹に黄色いリボンを結んで)」1973年にアメリカンポップスのグループ「ドーン(Dawn)」が発表して歌った曲で、全米で爆発的なヒット曲となりました。

歌詞(一部)の意味は次の通りで、ある物語を基にしています。

 

  僕は刑期を終えて 家に向かうバスの中

  手紙で伝えたとおり 僕は近々出所する

  もし君がまだ僕を必要としてくれているなら

  古いオークの幹に  黄色いリボンを結んでおいて欲しい

 

あれっ?どこかで見聞きしたことのあるような・・・。

そう、高倉健が主演した「幸福の黄色いハンカチ」(1977年公開)は、この曲で歌われている話をベースにしたものだったのです。リボンがハンカチに入れ替わり、家に向かうのに乗っていたのは、バスではなく武田鉄矢が運転する赤いマツダ・ファミリアでしたが。

 

 3.  ジャンバラヤ

カントリー音楽の名歌手ハンク・ウィリアムズ(Hank Williams)が1952年に作曲した曲です。1973年にカーペンターズによってカバー・リリースされて一段と有名になりました。 ジャンバラヤ(jambalaya)というのは、お米を使ったアメリカの南部ルイジアナ州ケイジャン地方の郷土料理です。スペインのパエリアに似ていて、スパイシーな味付けになっています。

曲は、「この料理を食べて友を送り出そう」といった内容で、歌詞(一部)は以下の通りです。聴くだけでも感じますが、こうして見ると、見事に韻を踏んだ歌詞であることが分かります。

 

Good-bye, Joe, me gotta go, me oh my oh    さよなら ジョー 俺 行かなくちゃ

Me gotta go pole the pirogue down the bayou.  ボートをさおで押して入江を下ろうぜ

My Yvonne, the sweetest one, me oh my oh  俺のイヴォンヌ最高に素敵なやつだけど

Son of a gun, we'll have big fun on the bayou くそったれ俺達も入江で楽しい事をしよう

 Jambalaya and a crawfish pie and file' gumbo ジャンバラヤとザリガニ・パイとオクラ包み料理

以下、略

 

 

 

話題16. 曲目解説 『少年時代』     作曲:井上陽水

  

9909月に発表・発売された井上陽水の代表曲の一つで最大のヒット曲。最初はパッとしなかったものの、ソニーのビデオカメラのテレビCMの音楽に使われたことから人気が急上昇しました。

 「歌詞」

 夏が過ぎ 風あざみ 誰の憧れにさまよう  青空に残された 私の心は夏模様


夢が覚め 夜の中 永い冬が窓を閉じて 呼びかけたままで 夢はつまり 想い出のあとさき夏まつり 宵かがり 胸のたかなりにあわせて  八月は夢花火 私の心は夏模様

目が覚めて 夢のあと 長い影が夜にのびて 星屑の空へ
夢はつまり 想い出のあとさき

 

 どんな情景や心情を歌っているのか判然としない、幻想的な(悪く言えば、意味不明な)歌詞です。ここに出てくる「風あざみ」「夏模様」「宵かがり」「夢花火」などは、有りそうで現実にはない言葉で、井上陽水が独自に作った造語だとされています。しかし、この意味がハッキリしない、でも響きの良い単語が、アンニュイな感じのメロディーと上手く合致しているように思います。

 

 

 

話題15. 曲目解説  唱歌「早春賦」

                      作詞:吉丸一昌   作詞:中田章

  1913(大正2)年に発表された唱歌で、2007年には「日本の歌百選」の一曲に選定されています。

 作詞の吉丸一昌は、尋常小学校唱歌の編纂時の作詞委員会委員長で、東京音楽学校 (現 東京芸大)の教授。作曲の中田章も東京音楽学校の教授で、「ちいさい秋見つけた」「めだかの学校」などを作曲した中田喜直の父親です。

 この曲の歌詞は、吉丸一昌が訪れた長野県の安曇野(松本盆地の西部)の景色に感動して作った詩が元になっていると言われています。白い雪を戴く槍ヶ岳や奥穂高岳が見える場所です(穂高川の土手に歌碑が建っています)。また曲名の「早春賦」の「賦」は、漢詩の体裁の一つで、感動をありのままに述べたもの。「早春賦」とは「早春の頃の情景に 対する感動の詩」くらいの意味です。このため、歌詞は漢文調ですので、少々分かりづらい箇所もあります。念のため現代語の対訳を付けておきました(上手な訳になっているか分かりませんが)。

 

春は名のみの 風の寒さや     春とは名ばかりで 風が寒いことだ

谷の鶯 歌は思えど        谷のウグイスも歌おうと思うのだけども

時にあらずと 声も立てず      今はまだ早いと(考えて) 声も立てない

時にあらずと 声も立てず


氷解け去り 葦は角ぐむ       氷は解け去って 葦の芽が(ツノのように)出始める

さては時ぞと 思うあやにく       いよいよ春が来たぞと 思ったが 折り悪く

今日も昨日も 雪の空          今日も昨日も 雪の空になってしまった

今日も昨日も 雪の空


春と聞かねば 知らでありしを     既に春が来ているということを聞かなかったら

                  気が付かないでいたであろうに

 

聞けば急かるる 胸の思いを      聞いてしまったので急かされてしまうじゃないか

                  私の心を

いかにせよとの この頃か       どうすれば良いと言うのか 今頃(の季節)は

いかにせよとの この頃か

 

 

 

話題14. 曲目解説  唱歌 『 春の小川 』

 

 1912年に発表された文部省唱歌です。作詞は国文学者でもあった高野辰之、作曲は岡野貞一だとされています(文部省唱歌は、作詞者や作曲者を明示しないことが多い)。尚、高野辰之が作詞し、且つ岡野貞一が作曲した作品には、他に、『ふるさと』、『春が来た』、『朧(おぼろ)月夜』、『紅葉(もみじ)』などがあります。

  さて、この「春の小川」は、当時、作詞した高野辰之が住んでいた東京府豊多摩郡

代々幡村(現在の渋谷区代々木)を流れる河骨川(こうほねがわ)」の情景がモデルに

なっているとされています。

 河骨川というのは、渋谷川の上流にあたり、代々木4丁目付近で宇田川に合流し、その宇田川が西原2丁目付近で渋谷川に流入して渋谷駅の近くを通り、JR浜松町駅付近で東京湾に注いでいます。ただし、河骨川や宇田川のほとんどは、戦後になって悪臭が酷かったため、東京オリンピックの頃から暗渠となっています。もちろん、唱歌「春の小川」が作曲された頃(1912年)の代々木は、(歌詞にあるように)まだまだ田園風景が広がり、河骨川の流れも清らかでした。

 因みにこの1912年とは、明治45年すなわち大正元年であり、4月にタイタニック号が

氷山に衝突して沈没し、日本がオリンピックに初参加したストックホルム大会が5月に

開催され、7月に明治天皇が崩御され、それを追って9月に乃木大将夫妻が殉死した

年です。

 今、小田急線の代々木八幡駅付近の線路沿いには、『春の小川』の歌碑が建てられて

います。

 

 

 

話題13. 曲目解説 「時計(El Reloj )」(時計を止めて)

  

世界的に大ヒットしたラテン・ポップスの名曲です。メキシコの3人グループ、「ロス・トレス・カバジェロス」により歌われた作品で、1957年に、同グループのリーダーであるロベルト・カントラール(1935-2010)が作詞・作曲しました。

 日本では、 1970年代にアルゼンチンからやってきた歌手・ギタリストのグラシェラ・スサーナが、たどたどしい日本語だけど味わいある声で歌ったのが人気になりました(この時の曲名が「時計を止めて」)。

 『歌詞』

私たちのために 時計を止めて いつまでも今宵が 過ぎないように
あなたと二人で 過すこの夜は Y () Tu (トゥ) Tic (ティック) Tac (タック)
悲しみ やるせない想い
時計よ! お前よ! 心あるならば 二度とない この時を過ぎないでおくれ
過ぎゆく時は かえらぬ想い出 だからお願い 時計を止めて

 

 

 

話題12. 考察「ポピュラー」と「クラシック」

 

 「クラシックからポピュラーまで幅広いジャンルの曲を和気あいあいと合奏している楽団です」・・・これは当楽団の団員募集の文言の一部ですが、そもそも「ポピュラー」と「クラシック」って、何なのか? その言葉の意味を改めて調べてみました。

 

 ポピュラー音楽とは、ジャズ・ロック・ハワイアン・ラテン・シャンソン・カンツォーネなど、所謂クラシックや民俗音楽以外の「大衆音楽」の総称。軽音楽、ポップスなどとも言います。「ポピュラー(popular)」の単語を国語辞典や英和辞典で調べると、こう書いてあります。 

1.民衆の、庶民の  2.大衆的な、通俗的な  3.一般によく知られていること、人気のあること、流行の  4 .ありふれていること

  英語の「popular」の語源は、ラテン語で「国民」や「人々」という意味の「populus」で、「people(人々)」や「populism(ポピュリズム)」、「population(人口)」なども、これから派生した語です。 

 

では、クラシック(classic)とは、どういう意味の言葉なのでしょう?4年毎に開催され、今年も日本チームの活躍が期待される「ワールド・ベースボール・クラシック(WBC)」。ここにも「クラシック」が使われています。他に、ゴルフ大会の「〇〇クラシック」や競馬の皐月賞や菊花賞などの「クラシック・レース」もあります。

 クラシックの語源は、ラテン語で「classici」。これは古代ローマにおける「最上の市民階級」を指す言葉だそうです。これが現在の英語「classic」(クラシック)へと変化していきました。「学級」や「階層」という意味でも使う英語の「class(クラス)」も同じ語源で、これ自体で「高級、第一流」の意味も持っています(と、辞書に書いてあります)。

 野球やゴルフ、競馬に付けられた「クラシック」は、由緒正しい’‘伝統ある’‘第一級の競技大会である、という(主催者側の)表意であると言えます。「クラシック音楽(英語ではclassical music)」も同様で、「正統な純粋音楽」という位置づけです。

 そう言えば、文芸の世界において、芥川賞が「純文学作品」に、直木賞が「大衆文芸作品」に対する賞となっていますが、クラシックとポピュラーの関係は、これに似ているように思います。 

これまで「クラシック」=単に「古いもの」や「古典」だと思い込んでいませんでしたか?

 

 

 

話題11. 曲目解説 「シェルブールの雨傘」

                           作曲:ミシェル・ルグラン

 

 1964(昭和39)年に製作されたフランスのミュージカル映画の主題曲(主題歌)です。日本での公開は同年の104日(と言うことは、東京オリンピック開会式の6日前。東海道新幹線開業の3日後だった訳ですね。なつかしい時代です)。

 全編が音楽と歌のみで、一切セリフがないのがこの映画の特徴です。第17回カンヌ国際映画祭でグランプリ(パルム・ドール)を受賞しました。監督はフランスの名匠ジャック・ドゥミ。 主演(ヒロイン)のカトリーヌ・ドヌーヴは、この映画のヒットから世界的大女優への道を辿っていくことになります。

 作曲者のミシェル・ルグランは、フランスの作曲家・ジャズピアニストで、映画音楽では他に「華麗なる賭け(風のささやき)」「栄光のル・マン」などがあります。

 [物語の概要]

 1950年代のフランス北西部の港町シェルブールで、互いに愛し合っていた傘屋の娘ジュヌヴィエーヴ(カトリーヌ・ドヌーヴ)と自動車修理工の若者ギイ(ニーノ・カステルヌオーヴォ)は、ギイに召集令状が来たされた戦争(アルジェリア戦争:フランスの支配に対するアルジェリアの独立戦争)に引き裂かれる。

出兵前夜に結ばれ、ギイとの愛の結晶も宿したジュヌヴィエーヴだが、ギイの2年間の不在は彼女にとって堪え難いものだった。やがて、それぞれ別の相手と結ばれ、別々の人生を歩いて行く・・・と、こんな感じの悲恋物語です。

 

 

 

話題10. 曲目解説 「見上げてごらん夜の星を」

詞:永六輔 作曲:いずみたく

 

 元々は、1960(昭和35)年に上演されたミュージカル「見上げてごらん夜の星を」の主題歌で、劇中でコーラスグループが歌っていました。これを坂本九が歌い、シングルレコードとして出したら大ヒット。日本レコード大賞を受賞しました。1963年には映画化もされました。

 物語は、定時制高校に通う高校生たちの生活や恋など様々な青春像がテーマで、「苦労をしながらも、学べる喜びと楽しさが表現されている」作品だとされています。

 坂本九は1941(昭和16)年、川崎市で両親の「第9子」として生まれましただから名前が「九」。「上を向いて歩こう」「明日があるさ」など数多くのヒット曲を出しましたが、1985(昭和60)年8月の日航ジャンボ機が御巣鷹山に墜落した事故で、帰らぬ人になってしまいました。 

[歌詞]

見上げてごらん夜の星を 小さな星の小さな光りが

ささやかな幸せを唄ってる

見上げてごらん夜の星を ボクらのように名もない星が

ささやかな幸せを祈ってる

手をつなごう ボクとおいかけよう夢を 二人なら 苦しくなんかないさ

見上げてごらん夜の星を  ボクらのように名もない星が

ささやかな幸せを祈ってる

 

 

 

話題9. 曲目解説 『80日間世界一周』  作曲:ヴィクター・ヤング

 

  1990(平成2)年まで30年余に亘って放送されたテレビ番組「兼高かおる世界の旅」  覚えていますか? あのテーマ音楽もこの曲でしたね。

この曲は、ご存知の通り、1956(昭和31)年に製作されたアメリカ映画「Around the World in 80 Days」の主題テーマ曲です。映画は最優秀作品賞などアカデミー賞5部門に輝きました。その中には、この曲によって獲得した最優秀音楽賞も含まれています。

作曲者のヴィクター・ヤングは映画音楽を数多く手掛けており、『誰が為に鐘は鳴る』  『サムソンとデリラ』『シェーン』などの作品があります。また映画の原作は、フランスの冒険小説家ジュール・ヴェルヌの小説です。ヴェルヌの作品には他に『海底2万里(マイル)』『十五少年漂流記』などがあります。どれも小学校の頃にワクワクしながら読んだ懐かしい物語です。

[物語の概要]

1872年のロンドン。資産家のフォッグ氏は、友人と「80日間で世界を一周できるか否か」で大金の賭けをした。成功に自信があるフォッグ氏は、召使いを従えてイギリスから出発。  途中、様々な危機や事件、トラブルなどに見舞われながらも、スエズ、ポンペイ、香港、上海、横浜、サンフランシスコ、ニューヨークを経由して、ロンドンに80日ギリギリで帰着する。その結果、彼は賭けに勝つ。

 

 

 

話題8. 曲目解説 唱歌 『冬景色』

 

  1913(大正2)年に発表された文部省唱歌(旧、尋常小学唱歌)です。2007(平成19)年には「日本の歌百選」にも選ばれました。

 

 この曲の作詞・作曲は共に不詳です。そもそも、文部省唱歌(特に明治・大正期の尋常小学唱歌)には、作詞者・作曲者が不詳のものが多いのですが、これは当時、唱歌の編纂を国策として推進し、文部省(国)が作った歌であるという位置づけであったためで、作詞者・作曲者の名は公表せず、作者本人も口外しない旨の契約を交わしていたようです。ちなみに、作詞者・作曲者が不詳の唱歌の例として、次の曲があります。

  ・仰げば尊し(仰げば尊し~)  ・浦島太郎(昔々浦島が~) 

  ・茶摘み(夏も近づく~)  ・雪(雪やこんこ霰や~)

 

『冬景色』の歌詞は下記の通りです。

品のいいメロディーですが、歌詞は漢詩の読み下し文のようで、少々難解です。

 

[一番] さ霧消ゆる 湊江(みなとえ)の  舟に白し 朝の霜
ただ水鳥の 声はして  いまだ覚めず 岸の家

 

[二番] 烏(からす)啼(な)きて 木に高く 人は畑(はた)に 麦を踏む
げに小春日の のどけしや  かへり咲(ざき)の 花も見ゆ

 

[三番] 嵐吹きて 雲は落ち  時雨(しぐれ)降りて 日は暮れぬ
若し灯火(ともしび)の 漏れ来ずば それと分かじ 野辺(のべ)の里

 

  一番は、海か湖の岸辺の早朝の様子。凛とした寒さが感じられます。文頭の「さ霧」は、「狭霧」とも書きますが、この「さ」は(調子を整える)接頭語で、意味は持っていません。つまり、「さ霧」=「狭霧」=「霧」です。

 二番は、暖かな小春日和の昼の畑の様子が描かれています。「かへり咲(返り咲き)」というのは、「本来は春に咲く花が、小春日に誘われて時節でもないのに秋に再び咲くこと」をいいます。いわゆる狂い咲きですね。

 三番は、日が暮れてあまり時間が経っていない頃の夜、冷たい雨が横殴りに降ったり止んだりしている里の風景です。 

「冬景色」という語の語感から、真冬の白く雪が積もった景色を連想しがちですが、この曲はそうではなく、初冬の景色を歌い込んだもので、雪も積もっておらず霜が降りているだけです。(小春日や時雨は、晩秋から初冬の気象です)

 

 

 

話題7. 曲目解説 『愛の賛歌』

 

作詞者 エディット・ピアフ  作曲者 マルグリット・モノー

リリース 1950   録音 1950 52 フランス・パリ

 

フランスのシャンソン歌手 エディット・ピアフが自ら作詞し、歌った曲です。

 原題はフランス語で「Hymne à L'amour(イムヌ・ア・ラムール 意味:愛への賛歌)」。シャンソンを代表する曲として世界中で親しまれ、多くの歌手によってカバーされています。日本では岩谷時子の訳詞により越路吹雪が歌ったのが特に有名で、結婚式で歌われることも多いようです。

この曲、変化に富んだ美しいメロディーですが、歌詞の内容も見てみましょう。

岩谷時子の訳詞は以下の通りです(フランス語原文による歌詞の意味は少々異なっています)。ちなみに岩谷時子は、作詞家であり越路吹雪のマネージャーでもあった人で、「君といつまでも」加山雄三、「ベッドで煙草を吸わないで」沢たまき、「おまえに」フランク永井など多くの曲の作詞をしています。

 

あなたの燃える手で あたしを抱きしめて    ただ二人だけで 生きていたいの    
ただ命のかぎり あたしは愛したい    命のかぎりに あなたを愛したい    
頬と頬よせて 燃える口づけを 交わす喜び 交わす喜び    
あなたと二人で 暮らせるものなら なんにもいらない なんにもいらない 
あなたと二人で 生きていくのよ   あたしの願いは ただそれだけよ あなたと二人
固くいだき合い 燃える指に髪を  絡ませながら 愛しみながら    
口づけを交わすの 愛こそ燃える火よ   あたしを燃やす火 心溶かす恋よ

 

なかなか情熱的な詩です(エディット・ピアフのオリジナルの詩の方は、一段と壮絶で背徳的ですが)。この情熱はどこから来るのか

・・・ピアフには不倫の関係にあったプロボクサーのマルセル・セルダンという恋人がいましたが、その彼が1949年に飛行機事故で死にます。この曲はセルダンの死を悼んでピアフが作詞したとも言われています。一方、妻子ある彼との終止符を打つために書かれたものともされ、どちらが正しいのか分かりません。まあ、どちらにしても、そのような尋常ではない事情があったことを、あの情熱的な歌詞が物語っているように思います。

 

 続・紅白歌合戦の『愛の賛歌』

 

2016年大晦日の『第67NHK紅白歌合戦』をご覧になりましたか?

紅白初出場となった女優の大竹しのぶが、「愛の讃歌」を目に涙を溜めながら熱唱していましたね。あの時の歌詞が、越路吹雪などが歌う(日本ではポピュラーな)歌詞と異なっていたのに気付きましたか?大竹しのぶが歌った歌詞こそが、作詞者エディット・ピアフの元々のフランス語の歌詞に、より忠実に(日本語に)訳したものです。つまり、オリジナルに近いものです。

 見比べてみましょう。

 

〇大竹しのぶ(オリジナル)バージョン(訳詞:松永祐子)

 たとえ空が落ちて 大地が崩れても
怖くはないのよ あなたがいれば
あなたの熱い手が 私に触れるとき
愛の喜びに私は震えるの

あなたが望めば 世界の果てまで行ってもいいわ
髪の毛も切るの 家も捨てるわ 友達さえも
祖国も裏切る 怖いものはない あなたがいれば
あなたの他には何にもいらない この命さえも

いつかあなたが去り 死んでしまっても
嘆きはしないわ また会えるから
私にも死が訪れ 青い空の向こうで
愛し合う二人は二度と離れない

神は結び給う 愛し合う二人を

  

〇越路吹雪 バージョン(作詞:岩谷時子)

 あなたの燃える手で あたしを抱きしめて   

ただ二人だけで 生きていたいの   
ただ命のかぎり あたしは愛したい    

命のかぎりに あなたを愛したい   
頬と頬よせて燃える口づけを 

交わす喜び交わす喜び   
あなたと二人で暮らせるものなら なんにもいらない 
あなたと二人で生きていくのよ 

あたしの願いはただそれだけよ あなたと二人
固くいだき合い燃える指に髪を  

絡ませなが 愛しみながら   
口づけを交わす愛こそ燃える火よ   

あたしを燃やす火 心溶かす恋よ

 

エディット・ピアフの詩は、壮絶で攻撃的、さらに反社会的でもありますね。この曲が結婚式などで歌われることは、前回のこのブログでも書きましたが、この二つの内、どちらの歌詞の方が(結婚式の場で)相応しいか?・・・おそらく後者でしょう。オリジナルバージョンが日本で広まらず、越路吹雪バージョンが一般に定着しているのは、ここに原因があるようです。

 

 

 

話題6. 曲目解説 ドヴォルザーク作曲「スラヴ舞曲」

 

ドヴォルザークの「スラヴ舞曲集」には、「第1集・作品46」(1878年に出版)と、「第2集・作品72」(1886年に出版)があります。第1集・第2集ともに8つの曲から成っていますので、合計すると16曲あるわけです。

個々の曲の番号は、第1集・第2集のそれぞれで第1番から第8番と称する場合(ex. 第2集の5番)と、第1集と第2集の全16曲が1番から16番までの通し番号で呼ばれる場合とがあります。

 今回、練習を始めた曲は、第2集(作品72)の2番目の曲です。通し番号で言うと「第10番」になります。皆さんに配布された楽譜の表題に「op. 722 」と記されているのは、このことを表しています。

 

この曲は、当時、親交の深かったブラームスの「ハンガリー舞曲集」に刺激を受けて作曲されたと伝えられています。元々は、ピアノ連弾曲として書かれましたが、後にドヴォルザーク自身によって全曲が管弦楽曲へと編曲されました。

  スラヴ舞曲とは、言うまでもなくスラヴ地域に住む民族の舞踏音楽です。「スラヴ」の地理的な広がりは、東側は黒海の北に位置するウクライナやベラルーシ、ロシア。西側はポーランドやチェコなどの東欧諸国。南側はブルガリアやアルバニア及びセルビアやクロアチアなどのバルカン諸国を含む、かなり広い地域です(世界地図を見て、確認しておきましょう)。

ドヴォルザークの「スラヴ舞曲集」は、作曲者がチェコの出身なので、全16曲の多くがスラヴ地域の中でもチェコ(ボヘミア)の舞曲に基づいて作られていて、郷土色を深く充溢させています。ただし、第2集の2番(第10番)はそうではなく、ウクライナに起源を持つ曲だとされています。

 

 

 

話題5 楽器名の由来

 

他人が演奏している楽器はもちろん、自分の楽器でさえ知らないことだらけ。

例えば、楽器の名前の由来や語源。ピアノが「ピアノ・フォルテ」(piano-forte)に由来している事くらいは、誰でも知っているでしょうが、それ以外となると、ちょっと自信がないかも。

 

【弦楽器編】

1. 擦弦楽器

バイオリン(Vl violino

 言うまでもなく、オーケストラの最枢要楽器で、弦楽器の盟主格そんなイメージが強いですが、

楽器名は「viola+ino(小さいという意味の接尾語)」で成っていて、意味はそのまま「小さなビオラ」です。そう、弦楽器一族の中ではビオラが本家でバイオリンは分家なのです。

 

コントラバス(Cbcontrabasso

 ダブルベースとか単にベースとも呼ばれます。コントラバスの「コントラ」は、「~に対して」「逆に」という意味の副詞または前置詞。音楽用語としては「特別に」「相対的に(他の楽器に対して)一段と」という意味として使われます。従って、コントラ・バスは「一段と低いバス」という意味です。ファゴットにも特に音の低い「コントラ・ファゴット」があります。

元々は「ヴィオローネ」と呼ばれた楽器で、これが進化したのが現在のコントラバスです。

その「ヴィオローネ(violone)」とは、「ビオラ(viola)+one(大きなという意味の接尾語)」で、「大きなビオラ」という意味です。

 

チェロ(VlcCello violoncello 

 コントラバスのご先祖様である「ヴィオローネ(violone)」の小さいヤツ=「ちいさなヴィオローネ」

の意味を持つのがチェロです(violone + -ello小さなという意味の接尾語)。上記のように、そもそもヴィオローネは「大きなビオラ」という意味でしたから、「チェロ(Violoncello)」は「小さな、大きいビオラ」という意味になります。ややこしいですね。

 

ビオラ(Vlaviola

 では、上掲の弦楽器の名前の基になっているビオラの語源は?と言うと、これが良く分からないのです。

一説には、ビオラの胴体の部分の形がスミレの花に似ているため、この名が付いたということです。

三色スミレの内、花が大きいのをパンジー(pansy)、小さな花が咲くのをビオラ(viola)と言いますね。

また、スミレは英語でviolet(バイオレット)ですが、イタリア語では「viola」です。花も楽器もスペルは同じです。なお、花の「viola」は、ラテン語の「vitulor(大いに喜ぶ)」を語源にしているという説もあるようです。

 

2. 撥弦楽器

ギターGt. Guitar

相当古い歴史を持つ楽器です。中東を起源とし、その後欧州に伝わり楽器として発展した「リュート」がギターのご先祖様だそうです。

名称の由来は、古代ギリシャ語の「kithara(キタラ)」からアラビア語の「gitara」、

さらにスペイン語の「guitarra」、そして英語の「Guitar」へと変遷していったらしいのですが、最初の「キタラ」にどのような本来の意味があったのかは、不明です。

 

マンドリンMand. mandolino)

ギターと同じようにリュートから派生した楽器です。

マンドリン属には「マンドラ(Mandora)」という楽器があり、現在でもマンドリン・アンサンブルなどで弾かれています。この「マンドラ」が小型化されたのがマンドリン(mandolino)です。名称は、「バイオリンがビオラの小さいやつ」だったのと同じように、「マンドラ(Mandora)」+小さいという意味の接尾語(ino)」=「マンドリン(mandolino))となっています。では、そのマンドラの語源は何か? 

イタリア語で木の実のアーモンドの事を「mandorla」というのですが、これが語源だそうです。そう言えばマンドリンの胴体はアーモンドに似ていないこともないですね。

もう一つ。キリスト教の絵や彫刻に、キリストの背後に楕円形で全身を包むような光(後光)が描かれているものがありますが、あの楕円形の後光も「マンドラ」と言うのだそうです。

関係があるのか否か、よく分かりませんが。

 

【管楽器編】 

1.木管楽器

 フルート( flauto  flute[] Fl )

オーケストラの内部用語では「笛」と呼ばれることもあります。冬に強い風が吹き付けて、竹柵の先などからヒューと音が聞こえる現象を「虎落笛(もがりぶえ)」と言いますが、この発声原理を応用したのが「笛」です。「笛」と言うと、小中学校の授業で演奏したリコーダー(縦笛)を思い浮かべますが、歴史的には縦笛の方が古く、横笛であるフルートの方が新しいようです。オカリナや尺八、ホイッスル等も笛の仲間です。

フルートの語源は、イタリア語の「fiato」(呼吸、息という意味)だとされています。その「fiato」も、元々は日本語で言えば「ヒューヒュー」といった(風の流れを模した)擬声語であるようです。英語のfluid(流体)、flush(水がほとばしる)、flux(流れ)などの単語も、その派生形であると思います。

なお、フルート属の一つに「ピッコロ」がありますが、本来は「flauto piccolo」が正式名称で、「piccolo」は「小さい」という意味。つまり、「小さなフルート」がピッコロです。

 

○  オーボエ(Oboe Ob

二枚のリードが振動して音が出る「ダブルリード楽器」の代表格です。黒い管体の周囲にびっしりとキーなどの金属部品が蝟集し、楽器の構造は極めて複雑ですが、意外なことに、オーケストラで使われる管楽器としては、最も古い歴史を持っているようです。

名称の由来は、フランス語の「高い木」を意味する「haut bois」だとされ、転じて「高音(または大きな音量)の木管楽器」という意味もあるようです。この「haut bois」がどのようにして、イタリア語や英語で表記する「Oboe」に転化していったのかは、よく分かりません。

 

○  クラリネット(clarinetti  clarinet[] Cl )

クラリネットは、17世紀前半に発明されたものの、実用的な機能を持つのは18世紀中ごろに改良されてからで、比較的新しい楽器です。使われ出すのはモーツアルトの最後期に位置する交響曲39番あたりから。それ以前の古典派の曲ではほとんど使用されていません。

 さて、今は滅多に使われない「クラリーノ・トランペット」という楽器があります。

小型のトランペットをホルンのように渦巻き状にしたような形をしています。クラリネットの名称は、この「クラリーノ (Clarino)・トランペット」に音色や音域が似ていたことから、(Clarino)(et小さいを表す接尾語)=(Clarinet)と、なったようです。なお、「クラリーノ (Clarino)」という語は、英語の「clear(澄んだ、透明な)」や「clean(清潔な)」等と、語源を同じくするものと思われます。

 

 ところで、「クラリーノ」と言えば、繊維・化学会社「クラレ」の人工皮革を連想してしまいます。クラリーノは同社が1964年に開発した製品で、ビジネスシューズやランドセル、家具などの素材として使われています。あの人工皮革と渦巻き状の小型トランペットと、何か関係があるのか?

・・・勿論、人工皮革のクラリーノは、「クラレ」という社名に引っ掛けて考え出されたものであろうことは容易に想像できますが、果たしてそれだけなのか?・・・調べてみました。

クラレは、同社のホームページで、次のように述べています。

クラリーノの名前の名付け親は当時社長の大原 總一郎。トランペットの古い型の 吹奏楽器が由来で、「ただ新しいだけでなく、その製品の本質に対して、古典的な価値を 持たせたい」そんな想いがあります。クラレというオーケストラの中で勇壮に ファンファーレを奏でるトランペットのような活躍を期待して名付けられました。』(クラレのHPより)

 

な~るほど、大原社長は音楽の歴史についても造詣が深かったようですね。ちなみに、「クラレの」旧社名は「倉敷レイヨン」。大原社長は、倉敷の大原美術館の理事長でもありました。 

○  サクソフォーン( Saxophone[] sax )

 略して「サックス」とも呼ばれます。19世紀の中ごろにベルギーのアドルフ・サックス氏(18141894)によって考案された、新しいタイプの管楽器です。もう、言うまでもなく「サクソフォーン」の名称は、考案者サックスの名前「sax」と、「音」を意味する「phone」の合成語です。

 ところで、サクソフォーンは金管楽器ではなく、クラリネットの親戚である木管楽器です。クラリネットの柔らかく美しい音色を、もっと大きな音量で、簡単な操作で出すために創りだされたもので、クラリネットとほぼ同じ一枚のリードを使って音を出します。

 

○  ファゴット(Fagotti  bassoon [] Fg )

 オーボエと同様にダブルリードの管楽器で、まろやかで豊かな低音が魅力です。「ファゴット」または「バスーン」と呼ばれますが、この内「ファゴット」は、長い木の管を二つ折りにした形であることから「束ねられた木・薪の束」を表すフランス語「ファゴッテ(fagottez)」に、また「バスーン」は低音を表わす語「バス(Bass)」に由来します。かつては(昔は)「バスーン」と称されることが多かったようですが、最近は「ファゴット」と呼ぶのが一般的になりつつあるようです。

 

2.金管楽器

 ホルン (Cor. Corni

 金管楽器の盟主格。ふくよかで優しくも堂々とした音色が特徴です。ホルンには多くの種類が ありますが、一般的にオーケストラの楽器として使用されるのは「フレンチホルン」です。

 ホルンの起源は、動物の角を使って作った角笛(つのぶえ)で、英語やドイツ語で「horn」、 イタリア語では「コルノcornocorni」と呼ばれますが、これらは本来「獣の角」という意味です。

 ちなみに、トランペットに似た「コルネット」という楽器がありますが、あれは、このホルンを意味するイタリア語の「corno」に縮小接尾語の「-etto」が付いたもので、「小さなホルン」の意です。

 

 トランペット(Tr. trompe[伊] trumpet[英])

 貝殻(巻貝?)の一種を意味する「strombos」というギリシア語が語源で、それが 「trompe」(伊)へと変化したとされますが、よく分かりません。

ところで、英語の「trumpet」には、楽器のトランペットと言う意味の他に、「ゾウの鳴き声(パォ~ン)」という意味があります(中学生の時の音楽の先生が教えてくれました)。

 

 

 

話題4  『音響効果』

 

「アイホームまつど中央」食堂の音の響きには驚きましたが、音響効果の良い「世界三大コンサートホール」というのがあり、それは次の三つだそうです。もっとも、このようなものには主観が著しく入るでしょうし、そもそも世界三大~だとか日本三大~だとかには根拠に乏しいものも多いので、あてになりませんが。

 

・ウィーン楽友協会大ホール(1,680席、1870年築) オーストリア

・アムステルダムコンセルトヘボウ (2,037席、1888年築)  オランダ

・ボストン シンフォニーホール(2,625席、1900年築) アメリカ

 

因みに、近場では、錦糸町の「すみだトリフォニーホール」の音響が専門家からも高く評価されているようです(私自身もこの評価には納得)。

 

 

 

話題3 「ちいさい秋みつけた」考

 

この曲は、NHKの依頼で作曲され、昭和30年の音楽番組で歌われたのが最初だそうです。その後、合唱の曲として世に広がり、ボニージャックスなどもレコーディングしました。

作詞は、詩人・作家のサトウハチローで、彼の作品には他に「お山の杉の子」「うれしいひな祭り」などがあります。

一方の作曲は、中田喜直。「めだかの学校」「雪の降る街を」「かわいいかくれんぼ」「夏の思い出」などの名曲を世に送り出した作曲家です。

 

歌詞は下記の通りですが、

   2番の 「お部屋は北向き くもりのガラス うつろな目の色 とかしたミルク」や、

   3番の 「むかしのむかしの 風見の鳥の ぼやけた鶏冠に はぜの葉ひとつ」

など、意味やシチュエーションが判然としない箇所があります。 

作詞したサトウハチローはこの歌詩について、こう述べています。 

「原稿用紙を前に布団に腹這いになって外を見ていたら赤くなったハゼの葉を見て言い知れぬ秋を感じて、この歌を書き上げた」

 

自宅の部屋の窓から見える紅葉したハゼの葉や、聞こえてくるモズの鳴き声を題材にしたのでしょうが、読み手側にはピンと来ない詩です。それどころか、「お部屋は北向き」「うつろな目の色」とは何を示唆しているのか? 加えて、むかし「モズが鳴く夜は死人が出る」と信じられていた凶鳥が『呼んでる口笛』として登場するなど、不気味さを感じます。

まあ、作詞者本人は、そこまで深い意味はなく、書いているらしいですが

 

1.だれかさんが だれかさんが
  だれかさんが 見つけた
  小さい秋 小さい秋
  小さい秋 見つけた
   目かくし鬼さん 手のなる方へ
   すましたお耳に かすかにしみた
   呼んでる口笛 もずの声
  小さい秋 小さい秋
  小さい秋 見つけた

2.だれかさんが だれかさんが
  だれかさんが 見つけた
  小さい秋 小さい秋
  小さい秋 見つけた
   お部屋は北向き くもりのガラス
   うつろな目の色 とかしたミルク
   わずかなすきから 秋の風
  小さい秋 小さい秋
  小さい秋 見つけた

3.だれかさんが だれかさんが
  だれかさんが 見つけた
  小さい秋 小さい秋
  小さい秋 見つけた
   むかしのむかしの 風見の鳥の
   ぼやけた鶏冠に はぜの葉ひとつ
   はぜの葉あかくて 入日色
  小さい秋 小さい秋
  小さい秋 見つけた

 

 

 

話題2 「里の秋」異聞

 

今度の出前演奏の唱歌曲の一つになっている「里の秋」。子供の頃から耳にしてきた馴染のある綺麗な曲で、なんとなく、東北地方か信州あたりの、のどかな秋の農村の風景を歌った曲であるような気がします。 

が、本当にそうなのでしょうか? 

たまには楽器を置いて、歌詞をジックリ見てみましょう。

 

「里の秋」  作詞: 斎藤 信夫  作曲: 海沼 実      

 1番  静かな 静かな 里の秋  お背戸に木の実の 落ちる夜は 

    ああ 母さんとただ二人  栗の実 煮てます 囲炉裏端 

 

2番  明るい 明るい 星の空   鳴き 鳴き夜鴨(よがも)の 渡る夜は

    ああ 父さんのあの笑顔   栗の実 食べては 思い出す

 

 2番の歌詞の最後の箇所で、お父さんがそこには居ないことが分かります。何処にいるのでしょう? 出稼ぎに行っているのでしょうか?

(昔の東北や信州地方であればその可能性は充分あります)。それとも既に亡くなったのでしょうか?ちょっと心配になります。

この疑問は、3番の歌詞を読むと解決します。

 

 3番  さよなら さよなら 椰子の島  お舟にゆられて 帰られる 

     ああ 父さんよ 御無事でと   今夜も 母さんと 祈ります

 

  そう、父さんは戦争で南の方の島へ行っているのです。終戦になって戦地から引き揚げてくるのを母さんと待っているのです。戦病死していないことを祈りながら。

  昭和20年に敗戦となり、南方の島々や中国大陸などから、兵隊さんたちが続々と日本に引き揚げてきました。スシ詰めの引き揚げ船に乗り、舞鶴や佐世保などの港に復員してきました。 

 同年12月、日本放送協会(NHK)は、そうした復員者たちを歓迎・慰労する「外地引揚同胞激励の午后」という特別ラジオ番組を放送しました。

その番組の中で、歌手・川田正子によって歌われたのがこの曲です。遠い戦地から夫・父・兄が帰って来るのを待ちわびる気持ちを表したこの歌には、全国の人々から極めて大きな反響があり、翌年から始まったラジオ番組「復員だより()」のテーマ曲としても使われました。

 以後、小学校の音楽の教科書に採用されるなど、国民から永く愛唱され、平成19年には、「日本の歌百選」の中の一曲に選定されました。 

 さて次に、この曲の作詞者である 斎藤信夫[19111987]についてです。

 彼は千葉県の山武郡成東町の出身。千葉師範学校(現、千葉大学教育学部)卒業後、小学校の教員となりました。戦争の気配が一段と濃くなる1940 (昭和15) 年から終戦の年(昭和20年)まで、彼は葛飾町立葛飾尋常小学校に勤務します。

 ちなみに、この葛飾尋常小学校とは、現在の船橋市立葛飾小学校のことです。当時は、今のJR西船橋駅と北側ロータリーのある場所が、小学校の校舎と運動場でした。昭和34年に現在の船橋市印内一丁目(京成・西船駅の北側)に移転しました。

 彼は、小学校で教鞭を取りながらも詩作を独学し、多くの作品を雑誌に投稿していきました。その内の一つが、後に「里の秋」の歌詞として採用されることになる作品で、真珠湾攻撃の直後の昭和1612月に作られました。

ということは、「里の秋」の歌詞は斎藤信夫が「葛飾尋常小学校」の教諭をしている時に作られているわけです。そうであれば、

 静かな静かな 里の秋  の「里」とは、何処をイメージしたものなのか?

・・・それは、彼の生れ故郷の山武郡成東かもしれないし、職場である葛飾尋常小学校に通える範囲の場所(現在の西船橋駅の周辺か?)かもしれませんが、いずれにしても、千葉県内だと考えて良さそうです。つい我々が想像しがちな「東北か信州あたり」ではないのです、多分。

どうですか、「里の秋」の楽譜が、これまでとはチョット違って見えてきませんか?

 

注:『復員だより』は、外地からの引き揚げ船の入港予定や、乗船者の告知、各地に残留している同胞の状況などの情報を、まとめて放送する番組。併せて『尋ね人』という番組も放送された。これは個人についての消息を尋ねる番組。肉親や知人の消息を知りたい、留守家族に消息を伝えたいという手紙が続々と寄せられた。番組開始から3年間に取り上げた依頼総数は19515件。このうち、3分の1の消息が判明した。(以上、NHKアーカイブスより)

 

 

 

話題1《 曲目情報 》

 

新しい曲についての簡単な説明です。練習時のご参考にしてください。

 

 【ブラジル(Brasil)】

作詞作曲は、ブラジルの国民的作曲家として知られる、アリ・バホーゾ(Ary Barroso)。1939(昭和14)年に書かれた曲です。バホーゾは数多くのサンバを作曲していますが、この曲は最も有名でブラジル国民からも愛され「もう一つの国歌」とされています。歌詞(一部)は、次のような意味らしいです。

 

『・・・ブラジル、体躍るサンバ、ステップ弾むサンバ 我が愛するブラジル 主なる神の国、ブラジル、我がブラジル!・・・』

 

曲名は、日本では「ブラジル」というタイトルで知られていますが、本来は「Aquarela do Brasil」(ポルトガル語で「ブラジルの水彩画」の意)です。

この曲が世界中で知られるキッカケとなったのが、作曲から2年後の1942年に、ウォルト・ディズニーのアニメーション「ラテン・アメリカの旅」の中で使われたことで、以後、多くの人や楽団によって、演奏されてきました。日本では、1996年のサントリー・リザーブのCM(佐藤浩市が出演)にも使われていました。

 

【キャラバン(Caravan)】

1935(昭和10)年の作品。作曲は「A列車で行こう」など多くのジャズの作曲で知られるアメリカ人のデューク・エリントンと、プエルトリコ出身でエリントン楽団のトロンボーン奏者であるファン・ティゾール。非西洋的な音階を取り入れたメロディと、4ビートに準拠しない激しいリズムが特徴で、アフロ・キューバン・ジャズの代表曲とされるそうです(以上wikiによる)。

エリントン自身にとってもお気に入りの曲だったようで、同楽団の十八番のナンバーでもあり、何度もレコード録音されています。

なお、「Caravan」とは、砂漠をラクダなどの荷を積んで、隊を組んで移動する商人の一団(隊商)のこと。これをイメージした曲ですので、異国情緒溢れる印象を受けます。

 ちなみに

「私の音楽に対する勉強は、(G)と(F)の違いを学んだことから始まった」

とは、デューク・エリントンの有名な言葉だそうです。

そう言えば、指揮者O先生も「ダブルシャープの説明」の際に、(G)と(F)の違いに言及されていましたね。

 

 

【花のワルツ】

ロシアの大作曲家チャイコフスキーのバレエ音楽「くるみ割り人形(The Nut-cracker)」の中の1曲。

 「くるみ割り人形」は、チャイコフスキーの「三大バレエ」の一つで、23場により成る作品です(あとの2つは、白鳥の湖と眠れる森の美女)。1892年に初演されました。

このバレエで使われる音楽の中から8曲を選んで一塊としたのが組曲「くるみ割り人形」で、「花のワルツ」は、その最後の曲(8番目)となっています。ただし、バレエ全体の中では最後の曲ではなく、第2幕の後半に位置していて、女王の侍女たちが華麗に踊る場面でこの曲が流れます。

音楽とはあまり関係ありませんが、念のため付言すると、「くるみ割り人形」とは、クルミの殻を割る道具で、人形の形(多くはフランスまたはロシアの兵隊の姿)をしていて、人形の口の中にクルミを置き、背中側のレバーを押下するなどして砕く仕組みになっています。

 バレエ「くるみ割り人形」の物語は、ホフマン(ドイツの幻想的文学作家)のお伽話「くるみ割り人形と二十日ネズミの王様」を基にしていて、あらすじ は、ざっと以下の通りです。

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クリスマス・イブの夜に、少女クララの家でパーティーが行われている。クララが名付け親でもあるドレッセルマイヤーじいさんからクリスマスの贈り物として、くるみ割り人形を貰う。ところが、子供たちの間で取り合いになり、はずみで人形を壊してしまう。しかし、ドロッセルマイヤーじいさんが修理してくれる。パーティーは終わり、来客は子供たちと家路につく。

 その夜のこと、みんなが寝静まってから、クララは忍び足で、くるみ割り人形が置いてある部屋にやって来る。突然、柱の時計の鐘が12時を告げる。すると、クリスマスツリーがスルスルと伸びて巨木になる(=クララの体が人形の大きさまで小さくなる。この辺は、不思議の国のアリスに似ている)。驚くクララ。

そこに、ネズミの大群が押し寄せ、走り回る。お菓子の中からは人形の兵隊たちが出てくる。ネズミたちにはネズミの王様がいて、一方のおもちゃの兵隊の指揮官は、くるみ割り人形である。1発の銃声から両者の間で激しい戦闘が始まる。戦況は次第におもちゃの人形側が不利になっていく。やがて、くるみ割り人形とネズミの王様の一騎打ちとなり、くるみ割り人形が危なくなる。そこでクララがネズミの王様にスリッパを投げつけ、ネズミたちを追い払う。

救われたくるみ割り人形は美しい王子になる。お菓子の国の王子は、生れてすぐに呪われて、くるみ割り人形の姿にされていたのだった。クララの力で人間に戻った王子は、クララをお菓子の国に連れて行く。

  雪の中を飛ぶようにしてお菓子の国に到着し、王子はクララを女王(こんぺいとうの精)に紹介する。饗宴が始まり様々な踊りが披露される(「花のワルツ」はこの辺り)。クララはお菓子の国の人たちから祝福され、2人は結婚する。おしまい。

  

カレリア組曲

シベリウスが28歳の1893年の作品。フィンランド南東部のカレリア地方にある港湾都市ヴィボルグ(現在はロシア領)で開催された野外劇のための付随音楽に基づく組曲です。

劇は愛国心を高揚させるためのもので、カレリア地方の1319世紀の歴史を題材として描かれたものでした。付随音楽としての「カレリア」は、「序曲」、「7つのシーン」、そして終曲の「フィンランド国歌」の全9曲から構成されていました。後に、その中から次の3曲を抜粋して、演奏会用に再構成されたのが「カレリア組曲」です。

 

1曲『間奏曲』  第2曲『バラード』  第3曲『行進曲風に』

 

カレリア地方

 『地理』

フィンランド南東部からロシアの北西部に跨る広大な地域で、森林が広がり、多数の湖が点在するヨーロッパ最大の湖水地帯です。カレリアはフィンランド人にとって精神的な故郷とも言われ、独自の文化・伝統を有しています。

 

『歴史』

中世以降、現在のフィンランドとその周辺は、スウェーデンとロシアの間で争奪戦が展開された場所でした。1155 から 1809の間、フィンランドはスウェーデンの支配下でした。1809年からは、ロシア帝国領内の大公国(フィンランド大公国)とされました。1871年にドイツが統一すると、ロシアにとって地政学的に重要な位置にあることから、フィンランドの「ロシア化」が始まり、次第に自治権が剝奪されていきました。

 

1917年にロシア革命が起こると、その混乱に乗じてフィンランドは独立を宣言します。

しかし1939年、第二次世界大戦の最中、ソ連軍がフィンランドに侵攻します。フィンランドは果敢に抗戦しましたが、形勢不利で講和を決断。1940年に締結された「モスクワ講和条約」で、国土の1割に及ぶ東部カレリア地方をソ連に割譲することになります。

 

これがきっかけで、フィンランドはドイツに接近し、援助を受けるようになります。1941年、ドイツと交戦していたソ連は、フィンランド国内を爆撃します。このため、フィンランドとソ連の戦争が再開されます。フィンランドは善戦してカレリアの旧領土を奪回しますが、その後は膠着状態となり、1944年に休戦協定が結ばれました。1947年の「パリ講和条約」で(枢軸国側として)フィンランドはソ連による東部カレリア地方の領有を認め、現在のフィ ンランドとロシア連邦の間の国境線となりました。これによって、カレリアの野外劇が行われた都市「ヴィボルグ」もロシア領となりました。東カレリアに住んでいた約40万のフィンランド人(カレリア人)の多くは本国に避難し、その跡にはロシア人やベラルーシ人などが入植しました。東カレリアの国名は「カレリア自治ソビエト社会主義共和国」となり、1991年のソビエト連邦の崩壊後は「カレリア共和国」と称しています。

 

今年(2023年)4月にフィンランドがNATOに加盟しましたが、背景には上記のような歴史的経緯があるわけです。

 

 

 

57の部屋

ジャズ組曲第2番から「セカンド・ワルツ」

 

退廃的な優雅さと物悲しさ、可愛さが混在し、歌謡曲のようにも、サーカスの曲のようにも聴こえるメロディ。加えて、「ジャズ組曲」という曲名に漂う違和感など、なんとも面妖な曲です。

 

ショスタコーヴィチ(19061975年)

1906年、サンクト・ペテルブルグ()生まれ。ペトログラード音楽学校に入学し、1926年、19歳の時に作曲した「交響曲第1番」は、レニングラード・フィルによって初演されました。初演は大成功で、世界の注目するところとなりました。以後、20世紀を代表する作曲家という評価を得ていきます。作品には、第1番から第15番までの交響曲、バイオリン協奏曲、弦楽四重奏曲、オラトリオ、映画音楽などがあります。

 

1924年~1991年の間は「レニングラード」と改称されていました。

 

ショスタコーヴィチの音楽を理解するには、ソビエト政府による芸術表現への政治的な介入の歴史を知っておく必要があります。

「セカンド・ワルツ」が作曲される頃までのロシア(ソ連)に関する出来事は次の通りです。「戦争の世紀」と言われる20世紀の前半、帝政ロシアが崩壊して、最初の社会主義国家が出来ていった時代です。

 

『高校・世界史のおさらい』

1905年:「血の日曜日事件」 ロシア第一革命

191418年:第一次世界大戦

1917年:ロシア革命(第二革命)

1923年:ソビエト連邦(U...R)成立

1924年:レーニン死去

1925年:ソ連「一国社会主義」を採択

       以後、スターリンの独裁体制へ

1929年:世界経済恐慌

1939年:ドイツとソ連によるポーランド侵攻

        ~1945年 第二次世界大戦

1948年:東西冷戦の始まり

1956年:スターリン批判(独裁、恐怖政治の終焉)

 

1930年代から、政府は音楽を含む一切の芸術表現に「社会主義リアリズム(社会主義革命を称賛して、その現実を正しく具体的かつ平易に描写すること)」を求めました。検閲を行い、音楽でも形式や歌詞などが反体制的と判断されると、処罰されました(最悪の場合は処刑)。

ショスタコーヴィチも、共産党機関紙「プラウダ」などで強く批判されたことがあり、政府に阿った作曲をせざるを得なかったようです。それは、彼の交響曲で標題が付いている作品を見ると分かり易いです。(カッコ内は、曲の題材・テーマ)

 

交響曲第2番「十月革命に奉げる」・・・(1917年のロシア第二革命)

交響曲第3番「メーデー」・・・(プロレタリアートの連携)

交響曲第7番「レニングラード」・・・(第2次大戦のレニングラード攻防戦)

交響曲第11番「1905年」・・・(ロシア第一革命)

 

 

とは言え、1920年代(「社会主義リアリズム」が採用される前)のソ連では、前衛的な芸術活動が盛んで、米国などのポピュラー音楽にも寛大でした。特にジャズは「(敵対する)米国で差別され、虐げられている黒人」の音楽とされて、歓迎される傾向すらありました。1920年代後半には、国内に多数のジャズ・バンドがあったようです。

それどころか、ソビエトにおけるジャズ音楽の普及と評価を高めることを目的とした「ソビエト・ジャズ委員会」という組織もあり、ショスタコーヴィチはその委員の一人でした。

しかし、1932年頃から「社会主義リアリズム」が推進されていくと、ジャズは「西側諸国の悪しきブルジョワ文化」であるとされ、非難・排除されるようになります。代わりに、国民音楽(民族舞踊など)が尊重され、前衛的でなく、誰にでも分かる、親しみやすい音楽(メロディ)であることが求められました。

そのような中、ソビエト・ジャズ委員会の活動の一環として創作されたのが「ジャズ組曲」でした。

 

ジャズ組曲 1

社会主義リアリズム運動が強化され始めた1934の作曲で、分かり易い民族舞曲風の以下の3曲から成ります。第1曲「ワルツ」の出だしの箇所は「セカンド・ワルツ」と似た雰囲気です。全く「ジャズ」のようではありません。政府の方針に従って(迎合せざるを得ず)「悪しきブルジョワ文化」を排除した、「ジャズ」という名の舞曲集です。

 

・ワルツ  ・ポルカ  ・フォックストロット

 

ジャズ組曲 2

1938に作曲されたらしいですが、第2次大戦の混乱(ナチス・ドイツの侵攻)で楽譜の所在が分からなくなってしまいます。それから約50年経った1999、ピアノ総譜が発見されます。それをイギリスの作曲家がオーケストラ楽譜に仕立て直し、200099日に初演されました。組曲は、次の3曲から成っています。

 

・スケルツォ  ・子守歌  ・セレナーデ

 

(アレッ?組曲第2番には「セカンド・ワルツ」どころか、「ワルツ」が一つも無い!此は如何に?)

 

舞台管弦楽のための組曲・第1

1950年代になって、ショスタコーヴィチは「舞台管弦楽のための組曲・第1番」を作曲します。ところが、上記のように「ジャズ組曲・第2番」の楽譜が行方不明となっており、その内容がハッキリ分からなかった為に、本来は全く関係がないこの曲と混同されてしまいます。その結果、「舞台管弦楽のための組曲・第1番」が「ジャズ組曲・第2番」と(誤って)呼ばれるようになりました。しかも、本当の「組曲第2番」が発見された後も、間違った曲名のままで罷り通っています(我が楽団の楽譜のタイトルも、そうなっています)

組曲は下記の8曲から成り、過去に作曲した映画音楽やバレエ音楽などから転用した曲が混じっています(「セカンド・ワルツ」も、その一つです)。いずれの曲も、(ジャズ組曲 1番と同様に)軽音楽のような親しみ易さを持ったダンス曲です。

 

1曲: 行進曲
2曲: リリック・ワルツ
3曲: 1ダンス
4曲: 1ワルツ
5曲: 小さなポルカ
6曲: 2ワルツ
7曲: 2ダンス
8曲: フィナーレ

 

「セカンド・ワルツ」は、この第6曲で、組曲の中の「第4曲: 1ワルツ」の後の「2番目のワルツ」です。元々は、開拓地の共産党青年団を描いたソ連映画「第一軍用列車」(1956年)の挿入曲として作曲された曲です。優雅さと物悲しさを併せ持つメロディは、「クレズマー」という東欧系ユダヤ人の民族音楽の要素が取り入れられているそうです。

 

 

 

56の部屋

くるみ割り人形の「パ・ド・ドゥ(Pas de deux)」

 

パ・ド・ドゥとは

フランス語で「123」は、「un(アン)、 deux(ドゥ)、 trois(トロワ)」。また、「Pas(パ)」はバレエ用語で「ステップ・動き」のことで、Pas de deuxパ・ド・ドゥ)」は2人の、特に男女2人による踊りです。男性が女性を持ち上げる「リフト」など高いテクニックを要するため、踊り手の技術の大きな見せ場となっています。ちなみに同性の2人による踊りは「デュエット(デュオ)」、3人で踊るのは「パ・ド・トロワ」と言うようです。 

 

くるみ割り人形のパ・ド・ドゥ』  

「くるみ割り人形」は、第1幕と第2幕から成り、15曲(実質、全部で24曲)で構成されるバレエ音楽です。この内から8曲を選んだのが演奏会用の組曲で、構成は次の通りです。

 

組曲「くるみ割り人形」

①小さな序曲  ②行進曲 ③金平糖の踊り ④ロシアの踊り(トレパック)

⑤アラビアの踊り(コーヒー) ⑥中国の踊り(お茶) ⑦葦笛の踊り ⑧花のワルツ

 

組曲の最後の有名な「花のワルツ」が実に華やかなので、大団円で物語が終わる最後の曲のような雰囲気がありますが、この曲はバレエ音楽の中では全15曲中の第13曲。この後に第14 「パ・ド・ドゥ」と第15曲「最後のワルツとアポテオーズ(フィナーレ)」が続きます。

 

さらに、第14曲の「パ・ド・ドゥ」は次のような構成になっています。

 

アダージョ(金平糖の精と王子によるパ・ド・ドゥ)

ヴァリアシオンI「王子のタランテラ」( ソロの踊り)

ヴァリアシオンII「金平糖の精の踊り」( ソロの踊り)

コーダ(金平糖の精と王子によるパ・ド・ドゥ)

 

このような「4部構成」で男女二人が組んで踊るバレエの形式は「グラン・パ・ド・ドゥ」と呼ばれています(「グラン」は「大きい」の意)。

今回、我が楽団で演奏しているのは、①のアダージョ(金平糖の精と王子によるパ・ド・ドゥ)」の部分です。あまりにも美しいので、単独で演奏されることが多い曲です。組曲では3番目の「金平糖の踊り」が、バレエでは最終のところに位置しているのも注目点です。

ちなみに、金平糖の精はお菓子の国の女王です。

 

順次進行メロディー』 

「ドレミファ」や「ラソファミレ」のように、音がスケール(音階)の隣の音へと進んでいくのを「順次進行」と言います。チャイコフスキーは「音階の作曲家」と言われるほど、彼の作品には順次進行のメロディーが多用されています(

その典型例が、この「パ・ド・ドゥ(アダージョ)」です。基本となる「ドーシラソファ―ミレドー」と「ラーソファミレードシラー」の二つの丸々1オクダーブに及ぶ順次進行が、哀調や緊張感のある中間部を挟んで計10回くらいも登場します。それでいて「くどさ・しつこさ」を感じません。

 

:チャイコフスキーの順次進行メロディーの例

交響曲第6番 第4楽章  (ミーレドシーラシー・・・)

「白鳥の湖」導入部 (ミーーレドシラシーソミ・・・)

2幕「情景」 (ミーラシドレミード・・・)

「弦楽セレナーデ」第3楽章 (レーミファソラシドレーミーファミ・・・)

 

馴染みやすい順次進行」のメロディーは、他の作曲家の有名な作品でも聴かれます。

 

ベートーベン:交響曲第9番第4楽章(所謂「歓喜の歌」)

(ミーファソソファミレドーレミミーレレー・・・)

ベルリオーズ:「幻想交響曲」第2楽章「舞踏会」

(ミレドシドレミファソーソラシドーシ・・・)

 

(くるみ割り人形の物語のあらすじは、「本欄の第1の部屋」を参照)

 

 

 

ミッション: インポッシブルMission: Impossible

 

1966年から8年間、アメリカのテレビネットワークCBSで放送され、高い視聴率を記録したスパイ物のアクションドラマです。エミー賞やゴールデングローブなど多くの賞を受賞しました。日本でも1967(昭和42)年から「スパイ大作戦」の題名で放送され、大ヒットしました。

物語の内容は、国家の諜報機関からの指令を受け、主人公のジム・フェルプスを中心に、それぞれ特技を持つ数人のチームで、実行不可能と思われる作戦を展開、成功するというもの。

オープニングのテーマ曲が印象的ですが、作曲したのは、アルゼンチン出身のラロ・シフリン(1932年~)で、本作でグラミー賞を受賞しています。映画やテレビシリーズの作曲が多く、他に「ブリット」、「ダーティハリー「燃えよドラゴン」などのテーマ曲があります。

ところで、「ミッション: インポッシブル」のテーマ曲は4分の5拍子。やや珍しい拍子ですが、この曲の他に有名な5拍子の曲として次の作品があります

 

ジャズ

「テイク・ファイブ(Take Five)」(デイヴ・ブルーベック)

映画音楽

「ゴジラのメインテーマ」・・・8分の4拍子と5拍子が交互に繰り返されます。

クラシック

 チャイコフスキー:交響曲第6番「悲愴」第2楽章

ラヴェル:バレエ音楽「ダフニスとクロエ」第2組曲 全員の踊り

ホルスト:組曲「惑星」 第1曲「火星」

 

 

 

ア・ホール・ニュー・ワールド A Whole New World

 

ディズニーアニメ映画アラジン』で、王子に変装した貧しい青年アラジンが、王女のジャスミンと魔法の絨毯に乗って世界中を見て回る場面で唄われる曲です。

映画は1992年に制作され、「ホール・ニュー・ワールド」はアカデミー歌曲賞を受賞しました。また翌年には、年間ビデオ販売数全米1位の売り上げを記録しました。
日本での公開は1993年で、セルビデオの出荷数が歴代1位の売り上げとなるなど、日本でも大人気となりました。

作曲は、アメリカ・ニューヨーク出身のアラン・メンケン(Alan Menken)。ディズニーアニメ映画では、他に、「リトル・マーメイド」(1989年)、「美女と野獣」(1991年)、「ポカホンタス」(1995年)の音楽を作曲し、それぞれアカデミー賞を受賞しています。また、ディズニーアニメ映画以外でも「ノートルダムの鐘」』(1996年)、「ヘラクレス」(1997年)、「塔の上のラプンツェル2010年)ほか、多くの映画音楽を作り出し、アカデミー賞ほか多数の音楽関連部門の賞を受賞しています。

 

 

 

55の部屋   

アメリカン・パトロール(American Patrol

 

1885(明治18)年に作曲された軍隊マーチです。作曲したのはアメリカのフランク・ホワイト・ミーチャム (1856 - 1909 )で、クラシックの作曲家で言えば、ヤナーチェク(チェコ)やエルガー(イギリス)、プッチーニ(イタリア)と同年代の人です。

この曲が作曲された1885年は、アメリカ合衆国の独立から100年、南北戦争が終わって20年後で、アメリカの国力が増強していく頃です。同年、ワシントンDCにワシントン記念塔が、翌年にはニューヨークで自由の女神像が完成しています。

 

曲は当初、ピアノ曲として書かれましたが、1891年にカール・フィッシャーという人が軍楽隊向けに編曲しました。これが、我々が一般に軽快なマーチとして聴く曲です。曲中には、次の3つの南北戦争時代のアメリカ民謡・歌曲がアレンジされて使われています。

 

ディキシー・ランド』、

南北戦争南軍が愛唱した歌。「ディキシー(Dixie)」は米国南部の諸州の通称です。

コロンビア・大洋の宝

アメリカ愛国歌。「コロンビア」はアメリカの古名・雅称です(日本の「大和」に

相当)。国歌「星条旗The Star-Spangled Banner)」が制定されるまで非公式の

アメリカ国歌一つでした。

『ヤンキー・ドゥードゥル』

アメリカ独立戦争の際に軍歌として歌われていたアメリカ愛国歌

日本では「アルプス一万尺」として知られています。

 

さらに第二次世界大戦中の1942年に、ジェリー・グレイという人がグレン・ミラーのスウィング・バンド用に編曲して大ヒットしました(言うまでもなく、我が楽団の楽譜はこのスイング・スタイルのものです)。

 

因みに「アメリカン・パトロール」は、日本では1967(昭和42)年にNHKの「みんなのうた」で、「ゆかいな行進」という題名で放送され、唄っていたのはデューク・エイセスだったようです。また最近では、20192020年のチューハイ・カクテル「キリン・ザ・ストロング」のCMに、2022年には「キリン・一番搾り糖質ゼロ」のCMソングに、この曲が使われていました。麒麟麦酒の広告制作者はこの曲が好きなようです。

 

 

 

54の部屋   喜歌劇「天国と地獄」より

 (Orphée aux Enfers)

 

 1858年に作曲され、同年にフランス・パリの歌劇場で初演された喜歌劇です。1858年というと、フランスはナポレオン三世による第二帝政の時代で、ロシアと同盟国(英・仏・オスマン帝国)が戦った「クリミア戦争」が終わり、ヨーロッパではイタリアとドイツがそれぞれ統一されていく頃です。

作曲したジャック・オッフェンバック(18191880年)は、ドイツのケルン生まれのユダヤ人で、子供の頃にパリに移り住みます。パリ音楽院に入学してチェロを学び、パリの歌劇場の管弦楽団員、さらに後年は劇場の指揮者と作曲家になります。作曲家としてはワーグナーやヴェルディの後、フランクやブルックナーより前の年代です。

彼の音楽は、ユーモアに満ち、軽妙で美しく、転調による変化に富んだ旋律が特徴で、この「天国と地獄」と「ホフマン物語」(舟歌が有名)が代表的傑作とされます。彼は生涯に約90の喜歌劇作品を残し、フランス喜歌劇の創始者とも言われています。

 

この曲は、いろいろな意味で有名な曲です。我々の楽譜だと「練習番号O 」以降の部分は、「運動会の徒競走のための音楽」や「フレンチ・カンカンの曲」として知られる曲です。また、その部分の曲名が「天国と地獄」だと思っている人も多いようですが、あれは喜歌劇の中の「地獄のギャロップ」と呼ばれている曲です。

軽快なテンポと躍動的なメロディーが、運動会の駆けっこやカンカン踊りに馴染むようです。なお、この他に運動会でよく使われる次のような曲があります。

 

カバレフスキー:組曲「道化師」ギャロップ

ネッケ:「クシコスポスト」

ヨハン・シュトラウス2世:「トリッチ・トラッチ・ポルカ」

ロッシーニ:「ウィリアム・テル」序曲 スイス軍の行進

 

この軽快さをパロディーとして逆手に取ったのが、サン=サーンスの組曲「動物の謝肉祭」の第4曲「カメ」で、「地獄のギャロップ」が弦楽部とピアノによって超スロー・テンポで演奏されます。

カンカンと言えば、5匹の小熊の操り人形が「地獄のギャロップ」の音楽に合わせて「♪カステラ1番、電話は2番、3時のおやつは文明堂~♪」と踊るテレビCMがありました。あれは1962(昭和37) 年に始まり、なんと現在も続いているのだそうです。

 

因みに、文明堂のCMソングの中の「電話は2番」というのは、文明堂の電話番号が0002番だからです。1935(昭和10)年発行の電話帳の裏表紙に「カステラは一番、電話は二番」と大きく書かれた宣伝を出すなど、早くから「電話は2番」をキャッチコピーとして使っていたようです。同社のHPで確認したところ、現在も電話番号は、文明堂東京本社が「03-3351-0002」、長崎市の文明堂総本店の095-824-0002」ほか、支社の多くも「0002番」となっており、「電話は2番」に対する強い拘りが感得されます。

更に話は脱線しますが、昭和37 年と言えば、日本テレビ系で放送される料理番組「キユーピー3分クッキング」も、昭和37 年から続いているようです。

閑話休題。

 

曲名

 原題は、楽譜にも書いてある「Orphée aux Enfers」。フランス語で「地獄(冥界)のオルフェ」という意味です。英語で表すと「Orpheus in the Underworld」です。オルフェとは、この喜歌劇の主人公の男の名前で、バイオリンの教師をしています。一般に使われる名称「天国と地獄」は、1914(大正3)年に東京の帝国劇場で日本における初演時に付けられた邦題です。ふしだらな女(El Bimbo)」邦題が「オリーブの首飾り」ワルトトイフェルの「学生の楽隊(Estudiantina)」邦題「女学生」であるように、原題と邦題が大きく異なることがあります。

 

【序曲】

本来、喜歌劇「天国と地獄」に序曲はなかったのですが、後人が舞台で演奏される曲から数曲を選んで編曲して「序曲」としたものがいくつかあり、現在、コンサート用の曲として演奏されている曲は、その一つです。

なお、野村先生の楽譜は、その序曲の一部を序曲には入っていない(舞台で演奏される)曲(※)と入れ替えた編曲になっています。楽譜に記された曲名が「天国と地獄 序曲」ではなく、「天国と地獄より」となっているのは、そのためです。

 

:楽譜の練習番号の間の曲

 

オルフェウス

喜歌劇「天国と地獄」は、ギリシャ神話の「オルフェウス物語」をベースにしています。オルフェウス物語の概要は次の通りです。

竪琴の名手オルフェウスの妻であるエウリディケが、牧人アリスタイオスに追われて逃げている時に毒蛇に咬まれて死んだ。オルフェウスは、妻を慕って冥界に下りて行く。冥界の神々から、地上に出るまで決して後ろを見ないという条件で妻を連れ戻す許しを得る。しかし、地上に出る寸前にオルフェウスは誘惑に負けて後ろを振り返る。その瞬間、妻エウリディケは冥界に引き戻されてしまう。

・・・あれっ?どこかで聞いたような。「イザナギとイザナミ」の神話とそっくりです。このようなストーリーは、日本やギリシャだけでなく、欧州や太平洋の島々など世界中の神話に見られるのだそうです。

これを題材として1762年に作曲されたのが、グルックの歌劇『オルフェオとエウリディケ』です。グルックはバッハとハイドンの間の世代で、バロック~古典派の作曲家です。

このグルックの歌劇を、退廃的に面白おかしく風刺した(パロディー)が、オッフェンバックの『天国と地獄(地獄のオルフェ)』です。グルックの歌劇中のアリアの旋律を引用している箇所もあります。

 

【天国と地獄のあらすじ】

1

バイオリン教師のオルフェには愛人がいて、妻のユリディスにも羊飼いアリステ(実は地獄の王プルート)という愛人がいる。ある日、オルフェは妻の浮気相手が毒蛇に噛まれるように罠を仕掛ける。が、蛇に噛まれたのはユリディスの方で、死んでしまう。それでも、妻がいなくなってオルフェは大喜び。地獄の王プルートと晴れて一緒に地獄に行けるユリディスも大喜び。

 そこに人の姿をした「世論(常識や道徳、倫理)」がオルフェの前に現れ「当然、妻を取り返すべきだ」と言う。不承不承オルフェは神の世界(天国)へ行き、神々の王ジュピテルに「妻を返して欲しい」と頼む。美人のユリディスに興味があるジュピテルは、天国で退屈していた神々を連れてオルフェと共に地獄へ向かう。

 

2

ユリディスは地獄の王プルートと不倫を楽しんでいたが、プルートはジュピテルにユリディスを盗まれないよう、部屋に鍵を掛けてユリディスを幽閉する。ジュピテルは、蠅に変身して鍵穴からユリディスの部屋に侵入。一緒に天国へと行こうと誘う。ユリディスは満更でもない。しかし、プルートに見つかり大騒ぎとなる。

そこにオルフェが現れる。ジュピテルは、現世に戻り着くまでユリディスを振り返って見てはいけないという条件で、夫婦を帰してやることにする。

オルフェは全く振り返らないで進んでいく。ユリディスを地上に帰らせたくないジュピテルは雷をオルフェの背後に落とす。驚いてオルフェが振り返ると、ユリディスは再び冥界に戻されることになった。

しかし、オルフェは地上の愛人の許へ戻れると大喜び。ジュピテルはユリディスを酒の神バッカスに預けることにする。結局、「世論」以外の皆が喜ぶ結果になったことから、天国と地獄の神々が入り乱れて全員で愉快に歌い、乱痴気騒ぎが繰り広げられる。

(「地獄のギャロップ」は、この乱痴気騒ぎの場面の音楽の一つ)

 

――― つまり、学校では「快楽・不倫は素晴らしい!世の中の常識や道徳、倫理なんて糞くらえ!」という意味の地獄のギャロップ」を、運動会のBGMとして流しているわけです(笑)

 

 

 

53の部屋   オリーブの首飾り (El Bimbo)

 

ポール・モーリア=グランドオーケストラの代表的な曲です。そのため、ポール・モーリア(2006年没)が作曲者だと思いがちですが、作曲したのはフランスのシンガーソングライターであるクロード・モルガンという人。モルガンがリーダーを務めるポップ・グループが、ディスコで演奏するための曲として、1974年に作られたようです。

翌年(1975年)、ポール・モーリア楽団がオーケストラバージョンに編曲してカバーしたところ、大ヒット曲となりました。ポール・モーリア楽団のヒット曲と言えば他に「恋はみずいろ」、「エーゲ海の真珠」、「蒼いノクターン」などがありますが、オリーブの首飾り」は同楽団演奏のシングル盤として、最多の売り上げを記録しています。

 

因みに、オリーブの首飾り」がヒットした1975年は、マーガレット・サッチャーが英国保守党初の女性党首となり(2月)、サイゴンが陥落して約10年続いたベトナム戦争が終わり(4月)、日本は三木内閣の頃で、今も続く「まんが・サザエさん」のテレビ放送開始(4月)、先日亡くなったエリザベス女王の来日(5)、沖縄海洋博覧会(7月から)などがあった年です。

 

この曲の原題は「El Bimbo(エル・ビンボ)」。なんと、これはスペイン語で「ふしだらな女」という意味です(スペイン語の辞書は持っていないので、Google翻訳で確認しました)。

そう言えば、「ダメよ、あなた~」と日本語の艶めかしい歌詞で唄っているのを聞いた記憶があり、調べてみました。あれは、ローレン中野と「和田弘とマヒナスターズ」が唄ったもので、曲名は「ゆうわく」となっていました。オリーブの首飾り」よりは原題に近い語感です。オリーブの首飾り」も日本で付けられた曲名ですが、これ自体に特段の意味はなく、雰囲気を醸成しているだけのようです。

 

曲の頭の旋律「チャリララララ~」を聴くと、マジックショ―を思い浮かべます。

この曲をマジックショ―で最初に使ったのは「松旭斎(しょうきょくさい)すみえ」という女性のマジシャンだとされ、その後、引田天功等も使ったことからマジックの定番曲になっていったようです。ただし、これは日本だけで、海外ではこのような習慣はないらしいです。

 

 

 

 

50の部屋  カンタータ「主よ人の望みの喜びよ」BWV147

Jesus bleibet meine Freude

 

ヨハン・ゼバスティアン・バッハ Johann Sebastian Bach

 

「G線上のアリア」や「トッカータとフーガ」等と並ぶ、音楽の父・バッハの代表的な作品です。バッハは教会のオルガン奏者だったことから、数多くの教会カンタータを作曲していますが、その中で最も頻繁に演奏されるのがこの曲です。

カンタータは独唱・重唱・合唱などに管弦楽の伴奏が付いた比較的大規模な声楽で、バロック時代にイタリアで始まりました。楽曲和名では「交声曲」と呼ばれます。カンタータは、歌の題材によって、教会の礼拝用に書かれた「教会カンタータ」とオペラのような「世俗カンタータ」に分けられますが、バッハは教会カンタータを主としながらも、いくつかの世俗カンタータも書いており、双方で200以上の作品を残しています。

 

「主よ人の望みの喜びよ」は、これのみで独立した曲ではなく、カンタータ147番「心と口と行いと生活で(Herz und Mund und Tat und Leben)」という下記のような全10曲から成る曲集の中の10曲目のコラール(プロテスタント教会の讃美歌)です。

 

[1  

1 合唱「心と口と行いと生活で」

2 レチタティーヴォ「祝福されし口よ」

3 アリア「おお魂よ、恥ずることなかれ」

4 レチタティーヴォ「頑ななる心は権力者を盲目にし、最高者の腕を王座より突き落とす」

5 アリア「イエスよ、道をつくり給え」

6 コラール合唱「イエスはわたしのもの」

 

[2  

7 アリア「助け給え、イエスよ」

8 レチタティーヴォ「全能にして奇跡なる御手は」

9 アリア「われは歌わんイエスの御傷」

10 コラール合唱「主よ、人の望みの喜びよ」

 

この「心と口と行いと生活で」は1716年頃に作曲され、1723年に現在の形に改作されています。今のドイツでプロイセン王国が成立し、ヨーロッパの強国になりつつある頃です。キリスト教の「待降節(クリスマスまでの約4週間の準備期間)」のために作られた曲で、第10「主よ人の望みの喜びよ」に一貫して流れる上品で美しい旋律は、1642年頃に編まれた讃美歌集から引用されたもの。この旋律は第6曲「イエスはわたしのもの」にも出てくる(歌詞は第10曲と異なる)他、バッハの「マタイ受難曲」など他の作品にも使われています。

 

「主よ人の望みの喜びよ」の歌詞は、次の通りです。

 

Jesus bleibet meine Freude,    イエス、人の望みの喜び、
meines Herzens Trost und Saft,
   私の心の慰めと源、
Jesus wehret allem Leide,
      イエスは全ての苦しみを防ぎ、
er ist meines Lebens Kraft,
     彼は私の命の力です
meiner Augen Lust und Sonne,
   私の目の楽しみと太陽、
meiner Seele Schatz und Wonne;
   私の魂の宝と喜び
darum laß' ich Jesum nicht
     なので、私はイエスから離れない
aus dem Herzen und Gesicht.
     私の心とお顔から

 

『BWV番号について』

バッハの曲には、題名と共にBWV〇〇という番号が付いています。「主よ人の望みの喜びよ(心と口と行いと生活で)」なら「BWV147」です。

これは、J.S.バッハの作品を1950にドイツの音楽学者シュミーダーが、作品の分類により纏めた整理番号で、Bach-Werke-Verzeichnis(バッハ作品目録)の頭文字です。モーツァルトの「K(ケッヘル)」番号に相当するものですが、ケッヘルや一般的な作品番号「Op」が、作曲または出版の順に付番した番号であるのに対し、BWVは音楽のジャンルで分けられて付番されています。

 

 

49の部屋  小さな喫茶店 In einer kleinen Konditorei

 

ドイツ生まれのコンチネンタル・タンゴ(ヨーロピアン・タンゴ)の名曲です。1928年に発表され、翌年に製作された同名の映画の主題歌にも使われました。

 

作曲は、ウィーン生まれで、ベルリンで活躍したフレッド・レイモンド(19001954年)で、数多くのオペレッタや軽音楽の作品があります。また作詞は、オーストリアの作家ソングライターのエルンスト・ノイバッハ(1900 1968)です

 

日本には1934年に紹介され、日本語の訳詞で中野忠晴(当時、日本コロンビア所属)に、戦後は、ザ・ピーナッツ、菅原洋一など多くの歌手によって歌われています。

 

ノイバッハの原詞の意味は次の通りです。

 

小さな喫茶店の中で私たち二人は座っていた
ケーキとお茶を前に   二人は一言も話さずに
けれど、あなたは私があなたを理解していることをすぐに知った

エレクトリックピアノ(が静かに
「愛の喜びと悲しみの曲」を奏でていた
そして、その小さな喫茶店で、私たち二人は座っていた
ケーキとお茶を前にして

 

エレクトリックピアノ」は、1920年代にドイツで発明されています。

 

ところで、この曲が出来た1928年から日本に伝わった1934年辺りは、次のような時代でした。

 

第一次大戦後のベルサイユ体制の下で、1926年にドイツが国際連盟に加入。翌年には「ジュネーブ軍縮会議」があり(30年には「ロンドン海軍軍縮会議」も)、28年にはパリで「不戦条約」が結ばれるなど、国際協調の機運が高まりつつありました。世界経済も比較的安定していた時期でした。

しかし、2910月にニューヨーク市場の株価が大暴落(暗黒の木曜日)。これを機に世界は恐慌に突入していきます。ドイツの経済はたちまち破綻に瀕し、1932年の選挙でナチスが第1党となり、翌33年、ヒットラー内閣が誕生しました。

日本では、1928年に「第1回普通選挙」が行われています。しかし同年に張作霖爆殺事件があり、31年には満州事変、32年に上海事変と五・五事件、33年にはドイツと共に国際連盟を脱退するなど、次の世界大戦に向けて転がって行くことになります。

 

二人が座る喫茶店の長閑けさは、(歴史の上では)世界恐慌や戦争が始まる寸前の、束の間の平和だったようです。

2022627日)

 

 

 

48の部屋  Top of the World    Carpenters

 

 カーペンターズ(Carpenters)」の代表作の一つです。1972年に発表され、翌年にはアメリカのポップチャートで1位になりました。

カーペンターズは、アメリカ・カリフォルニア州出身の兄妹によるデュオで、兄のリチャード・カーペンターが作曲、アレンジ、ピアノを担当。妹のカレン・カーペンターがボーカル担当していました。1983年、カレンの突然の死によって活動を終えました。

 

歌詞

 

Such a feelin's comin' over me There is wonder in 'most every thing I see 

Not a cloud in the sky     Got the sun in my eyes          

And I won't be surprised if it's a dream   

 

こんな感覚が私に訪れるなんて 目にする全てものに驚く
空には雲一つなく 私の目には太陽が映る 

これが夢であっても驚かない

Everything I want the world to 
be   Is now comin' true especially for me

And the reason is clear   It's because you are here

You're the nearest thing to heaven that I've seen

 

この世界に私が望むもの全てが  私のためだけに実現しようとしている
その理由はハッキリしている   それはあなたがここにいるから
あなたは、私が見た中で一番天国に近い存在

I'm on the top of the world     Lookin' down on creation

And the only explanation I can find   Is the love that I've found

Ever since you've been around

Your love's put me at the top of the world

 

私は世界の頂上にいて      (神様が)創ったものを見下ろしている

それがどういうことなのかただ一つ説明できるのは 私が見つけた愛だということ
あなたが傍に居るようになってからずっと
あなたの愛が、私を世界の頂上にいるような気分にさせる

Somethin' in the wind has learned my name  

And it's tellin' me that things are not the same

 In the leaves on the trees  And the touch of the breeze

 There's a pleasin' sense of happiness for me

 

風の中の何かが私の名前を憶えている
同じものはないことを教えてくれている
木々の葉にも 風のそよぎにも
私を幸せにするものを感じる


There is only one wish on my mind  

When this day is through I hope that I will find
That tomorrow will be
  Just the same for you and me
All I need will be mine if you are here

私にはただ一つの願いがある
この日が終わったら、あなたと私にとって今日と同じ明日が来ること
あなたがここにいるだけで、私の望むもの全てを手にする

 

 

 

 

47の部屋    コッペリアCoppélia

「前奏曲とマズルカ」

 

「フランスのバレエ音楽の父」と呼ばれるレオ・ドリーブ(18361891年)の代表作です。ドリーブは大衆的な歌劇やバレエ音楽を多く作曲した人で、馴染み易く抒情的な旋律が特徴です。同年代の作曲家として、同じフランスのサン・サーンス(生年1835年)やビゼー(1838年)、ドイツのブラームス(1833年)等がいます。

 

「コッペリア」は1870年に初演された「カラクリ人形」が題材のバレエ音楽で、物語はドイツの作家・ホフマンの物語に依るものとされます。

因みに、「動く人形」を題材にしたバレエは、他に、チャイコフスキーの「くるみ割り人形(初演1892年)」やストラヴィンスキーの「ペトルーシュカ(初演1911年)」があります。また、「くるみ割り人形」もホフマンの物語が基になっています。

 

マズルカ(mazurkaは、ポーランドの民族舞曲で、19世紀に貴族たちの間で流行しました。名称は、首都であるワルシャワを中心とした「マゾフシェ地方」の人々(マズル)が踊っていたことに由来するようです。4分の3拍子を基本とし、1拍は付点音符、第2拍か第3拍にアクセントが置かれることが多い、特徴的なリズムです。

 

バレエ「コッペリア」の中でのマズルカは、男女ペアになった大勢の村人が軽快な足捌きで踊る場面(第1幕・第3曲)で演奏される音楽です。

「前奏曲とマズルカ」は所謂「序曲」に相当する曲で、冒頭、第1幕の幕が上がる前に演奏されます。短い「前奏曲」の後に「(第1幕・第3曲でも演奏される)マズルカ」が続き、「前奏曲+マズルカ」で一塊の「序曲」のような形になっています。

当楽団の楽譜なら、21小節目の練習番号(バグダッドの「B」)までが前奏曲。それ以降がマズルカです。

 

物語の『あらすじ』

1

舞台はポーランドの農村。変わり者で偏屈な人形職人コッペリウスが、本物の人間そっくりな美しいカラクリ人形を作り、「コッペリア」と名付ける。コッペリアは家の二階のベランダに置かれ、座って本を読んでいる(機械仕掛けで動きます)。

村娘のスワニルダと、その恋人フランツとは婚約している。フランツは、村の広場から見えるコッペリアが人形であることを知らず、その美しさから恋をしてしまう。スワニルダは嫉妬してフランツと喧嘩し、婚約を解消する。

ある日、人形職人のコッペリウスが街へ出かける際、家の鍵を落とす。鍵を拾ったスワニルダと友人たちは、コッペリウスの家に忍び込む。

2

家の中には、機械仕掛けの人形が数多く置かれていた。スワニルダ達は、コッペリアも人間ではなく人形であることに気付いて驚く。

そこにコッペリウスが帰宅。コッペリウスは怒り、友人たちは逃げ去るが、スワニルダは室内に身を隠す。 その時、コッペリア会いたいと思ったフランツが、梯子を使って窓から忍び込んで来る。

コッペリウスは怒りつつも、魔法を使ってフランツから命を抜き取り、人形のコッペリアにその命を吹き込むことを思い付く。薬を混ぜたワインを飲まされたフランツは眠りに落ちる。その様子を見ていたスワニルダは、コッペリアから脱がせた服を着て、コッペリアに成りすます。

コッペリウスは、コッペリア(実はスワニルダ)に命を吹きこもうとする。人形のコッペリア(スワニルダ)は一人で動き出し、コッペリウスを翻弄して大暴れする。 この騒ぎにフランツは目を覚まし、二人で逃げ出す。コッペリアの正体を知ったフランツはスワニルダに謝り、二人は仲直りする。

3

今日は、スワニルダとフランツの結婚の祝宴。村には新しい鐘が奉納され、祝いの宴が始まる。そこへ、コッペリウスがやって来る。彼は、大切にしていた人形をスワニルダに壊されたので怒っている。しかし彼は、スワニルダとフランツが深く謝り、村長から損失補填のお金を貰ったので機嫌を直し、一緒に二人を祝福する。

賑やかな踊りが次々と披露され、歓喜が高まる中、大団円で舞台の幕は閉じる。

 

 

【演奏記号】

 この曲の楽譜に記された演奏記号の意味は、次の通りです。[ ]内は小節番号。

 

12] cantandoカンタンド): 歌うように. 表情を込めて

2036] rall.(=rallentandoラレンタンド):だんだん遅くする。

次第にLentoに。略記がrall.

21] marcato(マルカート):はっきりと。音の一つ一つをはっきりと演奏する

40] Tempo di Mazurkaテンポ ディ マズルカ):マズルカの速さで

58] leggiermenteレッジェールメンテ.):軽く優美に、ノンレガートで

192] Animez(アニメ): 生き生きと速く

 

 

組曲

1.前奏曲とマズルカ

2.情景とスワニルダの円舞曲

3.チャルダッシュ

4.情景と人形の円舞曲

5.バラード

6.スラヴ民謡の変奏曲

 

 

 

46の部屋 ラ・クンパルシータLa Cumparsita

誰でも聞いたことのある、アルゼンチン・タンゴの代表作です。アルゼンチン・タンゴとは言え、作曲したのはアルゼンチンの隣国ウルグアイの人、ヘラルド・マトス・ロドリゲス (18971948)で、作曲した当時は、まだ大学に通う学生でした。

その彼が学生仲間と参加するカーニバルのパレードに出る際に、「行進曲」として作曲したのがこの曲の原型で、規則正しく刻まれるリズムには行進曲の面影があります。

その後、大幅に改変して編曲され、「タンゴ」として演奏されるようになりました。さらに歌詞が付けられたり、色々な楽団がアレンジをしたりして世に広がり、20世紀になると多くの楽団がアンコールの定番曲として演奏するなど、絶大な人気を誇るアルゼンチン・タンゴの代表曲になりました。

題名の「クンパルシータ(Cumparsita)」は、ルンファルドと呼ばれる俗語で「小さな仮装行列」という意味。ルンファルドは、アルゼンチン・タンゴの歌詞でしばしば使われる方言のような俗語で、イタリア語(※)やポルトガル語、先住民の言葉の影響を受けた言語です。なお、Cumparsitaはポルトガル語で「仲間」という意味でもあります。

ブエノスアイレスにはイタリアからの移民が多く住んでいます)

 

 

 

45の部屋 L-O-V-E (LOVE)

 

アメリカの歌手でジャズピアニストでもあるナット・キング・コール(Nat King Cole 19191965)が、肺癌で亡くなる直前に発表された大ヒット曲です。馴染みやすい軽快なメロディで、日本でもテレビCMなどでよく使われます。

歌の歌詞と大意は次の通りです。

 

L-O-V-E (LOVE)
作曲 Bert Kaempfert  作詞 Milt Gabler

 

L is for the way you look at me
"L"
 それは私を見つめる君のまなざし

O is for the only one I see

"O" それは私が見ている唯一の人
V is very, very extraordinary

"V" それはとてもとても特別な気持ち
E is even more than anyone that you adore can

  "E"  それは誰よりも君を愛している

 

 

 

44の部屋 ワルツ「女学生」Estudiantina

 

エミール・ワルトトイフェル(18371915年)は、通俗・大衆音楽を主とするフランスの作曲家です。「フランスのワルツ王」とも呼ばれ、ワルツやポルカ等の舞踏音楽を300曲ほど遺しています。ただし、現在しばしば演奏される有名な曲は、この「女学生」と「スケーターズワルツ」くらいで、日本では「スケーターズワルツ(「スケートをする人々」とも呼ばれます)」の方が一般に親しまれています。

作曲有れたのは1883年。前年にドイツ、イタリア、オーストリアによる三国同盟が結ばれ、欧州全体が帝国主義に移行していく時代です。なお、同年代の作曲家には、ブラームス(1833年生まれ)、サンサーンス(1835年)、ビゼー(1838年)、チャイコフスキー(1840年)等がいます。

 

ところで、題名の「女学生」は誤訳によるもので、この曲と女学生とは全く関係ありません。誤訳となった経緯は以下の通りです。

 

昔、スペインの貧しい大学生達は、学費を稼ぐために、夜になるとギターやマンドリン等の楽器を持ち寄り、街中を流しで演奏して幾ばくかのお金を得ていました。その楽団が"Estudiantina"(学生たちの楽隊)と呼ばれていたのですが、これがこの曲の原題として日本に紹介された際に、スペイン語のestudiante(学生)」の女性形名詞だと勘違いして「女学生」と訳してしまったようです。

因みに、英語での題名は「Band of Students Waltz(学生バンドのワルツ)」となっています。

 

今では「誤訳題名」として有名な曲なのですが、手元にある古い「クラシック音楽鑑賞事典」(講談社学術文庫)を見てみると、この曲の解説が次のように書かれています。

『青春を楽しむ女学生の朗らかで楽しい笑いに満ち、それでいて淡い感傷を秘めている・・・(中略)・・・円舞曲である』

著者は音楽評論家なのですが、「女学生をイメージした標題音楽」だと誤解しているのです。

 

まあ、そのように聞こえなくもないですが、やはり違和感があります。そもそもこの曲は、フランスの作曲家Paul Lacomeが書いたスペイン音楽が原曲で、それを基にワルトトイフェルが再編したものです。リストの「スペイン狂詩曲」やビゼーの「カルメン」、リムスキー・コルサコフの「スペイン奇想曲」などがあるように、音楽界では時々「スペイン物」が流行り、この曲が出来た時もそうだったようです。

 

曲は、二つのスペイン民族舞踊曲を含む数種の旋律が接合した構成で、民族色が濃く、スペイン南部の明るさと軽快さに満ちています。「女学生」の雰囲気やイメージではありません。

それにしても、誤訳だと分かっているのに改題せず、いつまでも「女学生」の題名を付けて、CDや楽譜が売られ、YouTubeにもアップされているのには、首を傾げたくなります。海外の人がこの奇妙な実態を見たら、どう思うでしょう?

 

曲の構成と、楽譜に記載されている表示の意味は、以下の通りです。

①やなどは楽譜の練習番号・記号)

 

冒頭 Introduction  前奏(導入部)

 

Estudiantinarefrain)」 (ルフラン)ロンドの主題

 

② Couplet(クープレ) ロンド主題が反復される合間に挿入される副楽想。

 

 Chanson d'automne【フランス語】 秋の歌

 

③ Jota de la Estudiantina【スペイン語】 学生楽団のホタ

Jota(ホタ):スペイン各地で演奏されている音楽、民族舞踊

 

 Tirana (ティラナ)【スペイン語】 暴君

 

④  De Cadiz al Puerto 【スペイン語】カディスから港まで

カディス:スペイン南西部の港湾都市

 

 El Tripil (トリピーリ)【スペイン語】 

トリピーリ:スペインの民俗舞踊。本来の意味は「三重・トリプル」

 

 

 

43の部屋 「威風堂々」1

 

かつて当アンサンブルで「愛の挨拶」を演奏しました。その「愛の挨拶」以上にエルガーの代表作だとされるのが「威風堂々」です。

 

「威風堂々」は、第1番から第5番まである軍隊行進曲集(遺作を含めると第6番まで)ですが、実際に演奏される機会があるのは、この第1番です。勢いある序奏が少々唐突な感じで始まった後、躍動感いっぱいの行進曲へと続き、中間部(トリオ)では雄大なメロディーが高らかに演奏されます。

 

この第1番、特にその中間部の旋律は、恐らくエルガーの曲の中で一番有名だろうと思われ、「威風堂々」と言うと第1番、さらにはその中間部を指すことも多いようです。

エルガーは、国王エドワード7世の戴冠式ために書かれた曲でも、この中間部の旋律を使っており、イギリスでは、「Land of Hope and Glory(希望と栄光の国)」と題され、第2の国歌のように歌われています。

アメリカでも、この曲は学校の卒業式などで使われ、日本ではJリーグ・浦和レッズの応援歌として演奏されています(サッカーのイングランド代表のサポーターが応援歌として使っていますので、その真似でしょうか)。

ちなみに、イギリス(イングランド)の国歌は「神よ女王を守り給え(God Save the Queen)」。また、第二の国歌というと思い出すのがフィンランドの「フィンランディア賛歌」で、これもシベリウスの交響詩「フィンランディア」の中間部が転用されています。

 

さて、言うまでもなく「威風堂々」は日本語名です。なぜ、このような独特な語感の題名なのか、気になります。

英語のタイトルは「Pomp and Circumstance  Marches(※1)」で、直訳すると「華麗で厳かな儀式ばった行進曲」というくらいの意味になります。これは、シェークスピアの戯曲『オセロ』第3幕第3場の台詞 "Pride, pomp and circumstance of glorious war(誉れ、輝かしい戦いの華麗で厳かさ)"に基づいているのだそうです。

ご覧のように、日本語に翻訳するには、少々難しい語感を持つ言葉(※2)で、直訳してもスッキリしません。そのため、戦前の日本のレコードで「威風堂々たる陣容」と意訳されたタイトルが付けられ、それがさらに「威風堂々」と短縮され、現在に至っています。

 

1: Marchesと、複数形になっているのに留意。第1番から第56)番まである曲ですからね。つまり、「威風堂々」は1つだけではなく、行進曲集であるということ。

 

2: pompは「華麗、壮観、誇示」。circumstanceは一般に「状況、環境、境遇、出来事」などの意味ですが、古語として「儀式ばること、物々しさ、盛大さ」という意味があります。

 

『エドワード・エルガー(Sir Edward William Elgar)』(18571934)

18576月、エルガーはイングランド中西部ウスターシャー(※3)の田舎町ブロードヒースで生まれました(※4)。オルガン奏者でもあり楽器店の経営やピアノ調律師をしていた父親の手ほどきを受け、小さい時からオルガンを演奏していました。しかし経済的に恵まれず、正規の音楽教育を受けることができなかったため、独学でピアノやバイオリン、さらに作曲や指揮法まで勉強しました。

1889年、32歳の時に、ピアノの教え子であったキャロライン・アリス・ロバーツと結婚してロンドンに定住します。8歳年上の彼女に捧げた曲が、あの「愛の挨拶」です。

1890年の「フロアサール序曲」、1898年の「エニグマ(謎)変奏曲」などにより、彼は世間に知れ渡るようになります。そして1901年、エルガーが44歳の時に「威風堂々」第1番が発表されて近代イギリスを代表する作曲家になっていきました。さらに1904年(47歳)にはナイトに叙されています。

 

3: 19世紀、ウスターシャーに住む主婦が、余った食材に調味料を入れて保存していたら、ソースが出来ていました。これが後に「ウスター・ソース」と名付けられました。

 

4: プッチーニ(生年1858年)やマーラー(同1860年)、ドビュッシー(同1862年)と、ほぼ同世代。

 

 

 

42の部屋 「タラのテーマ」

 

1939年(昭和14年)に製作されたアメリカ映画「風と共に去りぬ」のテーマ曲です。

 

映画の原作は、マーガレット・ミッチェル1900-1949)が書いた小説Gone with the Wind」で、世界各国でも翻訳された超ミリオンセラーです。

 

映画は上演に4時間がかかる大作で、前編と後編で構成されています。主演は、スカーレット・オハラ役がヴィヴィアン・リー、レット・バトラー役がクラーク・ゲーブル。

監督はヴィクター・フレミングで、彼には他に「オズの魔法使い」などの作品があります。

 

テーマ曲『タラのテーマ

圧倒的な存在感があるメロディーです。映画の中では、先ずオープニングタイトルで出てきて、その後も繰り返し流されます。作曲者は「キングコング」や「カサブランカ」など多数の映画音楽を手がけたマックス・ スタイナーです。「風と共に去りぬ」では、アカデミー作曲賞の候補になったものの、惜しくも受賞は逃しました。

 

物語の舞台は、アメリカ南部のジョージア州アトランタ近郊にあるタラという農村。農村とは言っても、多数の黒人奴隷に綿花を栽培・収穫させるプランテーション(大規模農場)が並んでいる所です。ただし、「タラ」は架空の地名です。この場所に絡む場面で演奏されるのがタラのテーマ』です。

 

因みに、やはり映画音楽で、よく似た名前のララのテーマ」があります。こちらは1965年のアメリカとイタリアの合作映画「ドクトル・ジバコ」の挿入音楽です。この曲も名曲です。

 

『物語の概要』

この物語の大まかな内容は、次の通りです。

アメリカ南北戦争(1861年~1865年)開始直前からお話が始まる。主人公は、プランテーション経営者で大富豪の令嬢であるスカーレット・オハラ(当然ながら、スカーレットが住むジョージア州は南軍側)。戦争がはじまると、結婚したばかりの夫が戦場で病死する。

スカーレットは南北戦争で身近な人々から離され、進軍してきた北軍によって屋敷も大農園も荒らされる。命からがら生き延びるが、母や財産を失う。北軍への恨み。貧乏から抜け出すために男たちの愛を利用していく…等々、愛や戦争、時代の変化に翻弄されながらも、逞しく生き抜いていく。

 

 

 

40の部屋 「起立、礼、着席」考

 

私たちの楽団では、練習の開始と終了時にピアノの伴奏に合わせて起立し、礼をしながら「よろしくお願いします」(練習終了時には「有難うございました」)と言い、そして着席します。勿論これは、学校時代の号令というか儀式というか、とにかく一連の行動である「アレ」に基づいて(或は、真似て)やっているわけです。

では、そもそも

①「アレ」は、何と呼ばれるものなのか?

②「アレ」は、海外でもやっているのか?いつ頃から始められたのか?

③伴奏のピアノの和音(コード)は決まっているのか?

・・・ふと疑問が湧き起ってきたので、調べてみました。

 

①名称

「アレ」の呼び名は各種あり、「一同礼」が比較的多いようですが、「修礼(しゅうれい)」「典礼」「一同敬礼」「一統敬礼」など様々で、地域によっても異なります。なお「修礼」は北海道から北関東までの東~北日本に分布しているようです。また、特段の名前はなく、そのまま「起立、礼、着席」と言っている学校も多いと思われます。

 

「アレ」の一連の動作の中で号令を掛けます。多くは「起立、礼、着席」のようですが、「立つ、礼、直る」など派生形がいくつかあり、地域差も見られます。新潟、富山、石川などでは「起立、気をつけ、礼、着席」と、途中に「気をつけ」が入ります。また、群馬や宮城では「起立・注目・礼」、沖縄では(座ったまま)「正座・礼」、鹿児島では「起立・姿勢・礼」と言うのが一般的だそうです。このほか、「起立、礼」だけで「着席」を言わない形式もあるようです。ただし、同じ地域でも学校によって異なることもあり、かなり複雑です。

 

②歴史

たまたま読んだ本に、以下のような説明がありました。

『 近代的な学校教育が始まった明治時代、音楽教育の在り方を研究するため、教育関係者がドイツに視察に行った。

当時、ドイツの学校の音楽の授業では、生徒に歌を唄わせる前に曲の「調」に合わせて3音から成る和音(例えば、ド・ミ・ソ)をピアノで弾いて聞かせる習慣があった。

それを見聞きした日本の視察団は、その和音は授業を始める合図だと勘違いしてしまった。その結果、日本の授業の前後の「起立、礼、着席」の際にピアノやオルガンで和音を鳴らすことになり、これが日本の学校教育に定着していった』

 

こうして「アレ」は現在に至っているのですが、最近は「アレ」の号令やお辞儀を「軍隊的で平和主義に反する」と考える人がいて、学校では行わなくなっていく傾向にあるようです。

 

 

③伴奏のピアノの和音

これには、いくつかの種類があるようですが、一般的には、

「起立」と「着席」

右手 :ド・ミ・ソ・ド     あるいは  ミ・ソ・ド

左手 :ド・ド(オクターブ)        低いド

「礼」

右手 :レ・ファ・ソ・シ    あるいは  ファ・ソ・シ

左手 :低いソ・ソ(オクターブ)      低いソ

 

なぜ、この和音の組み合わせが使われるのか?

ネットで音楽理論のページを見ていたら、次のような説明がありました。

「ド・ミ・ソ・ド(あるいは ミ・ソ・ド)」は「トニック」と呼ばれる、落ち着いて緊張がない和音。曲の終わりに使われます。

一方、「レ・ファ・ソ・シ(あるいは ファ・ソ・シ)は「ドミナント」という、落ち着かない緊張感がある和音です。

 

1つ目の和音で起立。体の姿勢は安定しています。和音も落ち着いた響きです。

2つ目の和音で礼をします。体を前に傾けるため不安定な姿勢です。和音も緊張感があります。

そして最後に着席。体も和音も落ち着きます。なるほどね。

 

ちなみに、我が楽団でPF―Kさんが弾いているのは?…ということで、ご本人にお尋ねしたところ次の通りでした。

 

「起立」と「着席」

右手 :ミ・ソ・ド

左手 :ド・ド(オクターブ)

「礼」

右手 :レ・ファ・ソ・シ

左手 :低いソ(1音)

 

但し、あまりにも練習の内容が悪かった時には、最後の「着席」の和音をマイナーコードの「ミ♭・ソ・ド」として、‘情けなさ、寂しさ’を表現する場合があるそうです。聞かないで済むように頑張りましょう。

 

 

 

39の部屋  「野ばら (Heidenröslein)」 

ハインリッヒ・ヴェルナー(Heinrich Werner作曲

 

童(わらべ)は見たり 野なかの薔薇
清らに咲ける その色愛(め)でつ
飽かず眺む  紅匂う 野なかの薔薇

 

この歌詞も題名も同じ二つの有名な曲がある「野ばら」。一つは歌曲王と呼ばれるシューベルト(17971828年)のリズミカルな旋律の曲。もう一つは、ヴェルナー(18001833年)のゆったりとした感じの曲です。小学校の合唱等で歌われるのは、ほとんどがヴェルナーの方だったと思います。

この二人は、シューベルトがオーストリア、ヴェルナーがドイツの人という違いはあるものの共通点が多く、同年代(3歳違い)の人であり、共に父親が教師で、本人たちも学校の教員をしながら作曲をして、シューベルトが31歳、ヴェルナーが32歳とほぼ同じ年齢で亡くなっています。

元の歌詞は、ドイツの文豪・詩人のゲーテの同名の詩(つまり「野ばら」)で、それに曲を付けたのがこの二つの歌曲です。二曲が題名も歌詞も同じであるのは、このためです。それどころか、このゲーテの詩「野ばら」は大変な人気があり、この詩に曲を付けたものは上記の二曲の他に100曲以上もあるようです(ベートーベンやブラームスも)。そもそも、ゲーテの作品は音楽の題材として好んで用いられ、ワーグナーやベルリオーズ、マーラーの管弦楽曲(いずれも「ファウスト」がテーマ)などにも見られます。

我々が耳にする日本語の歌詞は、近藤朔風(18801915年)という訳詞家のもの。彼の訳詞には、他にハイネの詩による「ローレライ(なじ~かは知らね~ど~♪)」などがあります。

 

 ところで、この曲の題名や歌詞の「野なかの薔薇♪」から、頭の中に、花屋さんで見かけるような八重咲のバラの花が、野原に1~2本咲いている景色を描きがちです。しかし、ここで唄われている「野バラ」とは、「ロサ・カニーナ(和名:イヌバラ)」と呼ばれるヨーロッパや北アフリカの山野に自生する蔓性の品種の薔薇です。野バラの花は、大抵5弁の花びらの一重咲きで、豪華な八重咲きの品種と比べて、小さく可憐で素朴です。だからこそ歌詞の「清らに咲ける♪」となるのです。

 

八重咲のバラ      ロサ・カニーナ

 

 

ところで、小学校の低学年の時、歌詞「あ~かず~なが~む♪」の箇所の意味が分からず、「この歌は『赤砂ガム』または『赤綱ガム』のCMソングなのだろうか?…でも、何か変だなぁ~」と考えていました。因みに、当時は明治、森永、江崎グリコ、不二家、ロッテ、カバヤ、コリス、ハリス等、チューインガムのメーカーが乱立していました。これが「飽かず眺む」であると理解したのは、中学校で古文の動詞の活用を学んでからでした。

 

 

 

37の部屋   『オリンピック・マーチ』 古関裕而 作曲

1964(昭和39)年1010日(土曜日)、晴れ渡る青空のもと(前日までは台風の影響で大雨だった)、国立競技場で東京オリンピックの開会式が催されました。

 午後150分、各国の国旗が「オリンピック序曲」(作曲:團伊玖磨)に合わせて一斉に掲揚され(スタンド周辺のポールに)、天皇陛下臨場、日本国歌演奏に続き、午後2時から選手団の入場行進が始まりました。

行進の先頭は、オリンピック発祥の地であるギリシャ。その後は、国名の英語表記でアルファベット順に(アフガニスタンから最後のユーゴスラビアまで)各国の選手団が入場。開催国の日本は、殿(しんがり)の94番目で入場しました。

 

陸上自衛隊中央音楽隊による「オリンピック・マーチ」は、ギリシャが入場する時から演奏され、「オリンピック・マーチ」の後は、世界の有名な行進曲を次々とメドレー的に演奏。入場順が89番目のアメリカ(USA)と90番目のソ連(USSR)の選手団が入場する頃から再び「オリンピック・マーチ」 に戻り、最後の日本選手団が入場し終わるまで演奏されました。品格のあるメロディーと躍動感溢れるリズム。コーダ部の最後の4小節に織り込まれた「(開催地が日本であることを暗示する)君が代」の旋律。これらは、多くの聴衆に一度聴いたら忘れられない、極めて強い印象と感動を与えました。

 

この行進曲を作曲した古関裕而は、1909 (明治42)年、福島市の呉服店に生まれます。裕福で音楽好きな家族の影響を受け、ハーモニカ演奏や作曲に興味を持つようになりました。商業学校を卒業後、銀行に就職しますが、ほぼ独学で作曲の勉強も続けていきます。彼が作曲した管弦楽のための作品が海外で入賞したのを機に、日本コロムビア()に作曲家として入社。以後、作曲を続けていきました。作品はスポーツ・ラジオドラマ・軍歌・歌謡曲・校歌(応援歌)など多岐に亘り、五千曲に及ぶと言われています。1989(平成元)年没。

主な作品は以下の通りです。

 

紺碧の空 早稲田大学応援歌

カレッジソング」東京農業大学応援歌

「六甲颪(おろし)」大阪(阪神)タイガースの歌

「野球の王者」及び「闘魂こめて」読売巨人軍の歌

「露営の歌」軍歌(♪勝ってくるぞと 勇ましく…)

「暁に祈る」映画主題歌、戦時歌謡(♪ああ、あの顔であの声で…)

「若鷲の歌(予科練の歌)」映画『決戦の大空へ』の主題歌、軍歌

(♪若い血潮の 予科練の 七つボタンは 桜に錨…)

「高原列車は行く」歌謡曲 歌:岡本敦郎(♪汽車の窓から ハンケチ振れば …)

「とんがり帽子」ラジオドラマ「鐘の鳴る丘」主題歌 歌:川田正子

(♪緑の丘の赤い屋根…鐘が鳴りますキンコンカン…)

「栄冠は君に輝く」夏の全国高等学校野球選手権大会の歌(♪雲は湧く 光あふれて…)

「長崎の鐘」歌謡曲 歌:藤山一郎(♪こよなく晴れた青空を…ああ長崎の鐘が鳴る)

「スポーツショー行進曲」NHKスポーツ中継番組のオープニング・テーマ曲

「君の名は」映画主題曲

「モスラ」怪獣映画主題曲

「ああ中央の若き日に」中央大学応援歌

千葉県立 国府台高等学校校歌(市川市)

 

なお、ファンファーレは、天皇陛下の開会宣言の直後の253分頃に、聖火台の下で吹奏されています。作曲したのは今井光也。当時、三協精機製の技術者で、アマチュア・オケ諏訪交響楽団のフルートとホルンの奏者兼指揮者だった人です。JOCとNHKが一般公募した「ファンファーレの曲」に応募し、応募数414作品の中から選らばれました。因みに、使用された楽器は、日本管楽器(株)が特別に製作したファンファーレ専用トランペットB管)でした。

 

 

 

36の部屋   「夕陽に赤い帆Red Sails In The Sunset

作曲:ヒュー・ウィリアムス18941939

 

ジミー・ケネディ(作詞)とヒュー・ウィリアムス(作曲)の二人のイギリス人よって、1935年(昭和10年)に作られた曲です。

作詞をしたジミー・ケネディ(Jimmy Kennedy)は非常に多くの作品を手掛け、他に「カプリ島の唄」、「ハーバーライト(港の灯)」、など後世に残る作詞をしています

作曲したヒュー・ウィリアムスは、本名をヴィルヘルム・グロシュ (Wilhelm Grosz)といい、オーストリア・ウィーン生まれのピアニスト、作曲家、指揮者です。本来はオペラやバレエなどのクラシック曲の作曲家ですが、1934年に英国に移住して、作詞家・ケネディとのコンビでポピュラー音楽を手がけるようになりました。前述の「カプリ島の唄」や「ハーバーライト」も彼の作曲です。

 

アイルランドの北海岸に、毎年「Red Sails Festival(赤い帆の祭)」が開催されるポーツチュワート(Portstewart)というリゾート地があります。「夕陽に赤い帆」の歌詞は、ケネディがそこで見た、ヨットの「赤い帆」から受けた強い印象を元に作られたとされています。

 

曲は、1935年にレイ・ノーブル楽団がアメリカに紹介して、たちまち世界でヒットし、1960年代にプラターズ(※1)やファッツ・ドミノ(※2)がカバーして、リヴァイバル・ヒットしました。

 

1アメリカのコーラス・グループ。代表曲は「オンリーユー」

2 アメリカのロックンロール歌手

 

歌詞は以下の通りです(訳は少々間違っているかも)。

 

Red sails in the sunset, way out on the sea

夕暮れ時に赤い帆が海の向こうへ出て行く

 

Oh, carry my loved one home safely to me

ああ、愛する人を無事に家へ連れ戻しておくれ

 

She sailed at the dawning, all day I've been blue

彼女は夜明けに船出し、僕は一日中ずっとブルーな気分だ

 

Red sails in the sunset, I'm trusting in you

夕暮れ時の赤い帆よ、僕はお前を信じている

 

Swift wings you must borrow

速く飛べる翼をあなたは借りなきゃ

 

Make straight for the shore

真っ直ぐ海岸に向かえ

 

We marry tomorrow

明日、僕らは結婚する

 

And she goes sailing no more

もう、彼女が船で海に出て行くことはない

 

Red sails in the sunset, way out on the sea

夕暮れ時に赤い帆が海の向こうへ出ていく

 

Oh, carry my loved one home safely to me

ああ、愛する人を無事に家へ連れ戻しておくれ

 

 

 

35の部屋   「茶色の小瓶」

作曲:ジョセフ・ウィナー(Joseph Winner18371918

 

1869年(※1)にアメリカの音楽家ウィナーによって作られた曲です。

この曲は、大量の飲酒が大好きな夫婦の様子を歌ったもので、この夫婦は

(酒のために)友達を失っても、古着を纏うほど生活に困窮しても

全くお構いなし…という有様。

陽気な曲なので発表当時から人気を博し、アメリカ民謡になっています。

作曲から70年後の1939年(※2)、グレン・ミラー楽団によって

スイング・ジャズ化され、世界的に有名となりました。今ではジャズの

スタンダード・ナンバーになっています。

 (※1:日本では、戊辰戦争が終結した年  ※2:第二次世界大戦が始まった年)

 

また、明るく覚えやすいメロディーであるため、子供向けに改作した

歌詞でも歌われ、学校の音楽でも取り扱われる曲となっているようです。

さらに、テレビのCMに使われることも多く、前述のように大酒飲みの歌なので、

酒類のCMに多用されています。最近ではキリンビール「一番搾り」のCMに(ダサい)替え歌で登場しています。

 

原曲の歌詞は、以下の通りです(1番のみ記載)。これにより、

「茶色の小瓶」とは、洋酒(多分、ラム酒)が入った瓶であることが判ります。

.

My wife and I lived all alone      

In a little log hut we called our own;
She loved gin, and I loved rum,
I tell you what, we'd lots of fun.

妻と僕だけで、小さな丸太小屋で気ままな生活さ

彼女はジンが、僕はラムが大好き

なんたって、メチャ楽しいのさ

 

Ha, ha, ha, you and me,
" Little brown jug" don't I love thee;
Ha, ha ha, you and me,
" Little brown jug" don't I love thee.

ハッハッハッ 君と僕

茶色の小瓶よ、お前なんて嫌いだよ(本当は大好きだ)

 

 

33 の部屋  エデンの東

 

スタインベックが書いた小説を原作としたアメリカ映画の主題曲です。スタインベックは「怒りの葡萄」でも知られるアメリカの小説家です。

「エデンの東」の小説は1952(昭和27)年に出版。映画は1955)年に公開されています。

映画の主演はジェームズ・ディーン。格好良いおニイさんでしたが、映画が公開された同じ1955年に自動車事故で亡くなりました。24歳でした。

主題曲を作曲したのはレナード・ローゼンマンで、この「エデンの東」同様にジェームズ・ディーンが主演した「理由なき反抗」の音楽も彼の作品です。また、「続・猿の惑星」「ミクロの決死圏」「ロボコップ2」などのSF物にも作品が多く見られます。

 

《物語の概要》・・・「エデンの東」とは?

 

第一次世界大戦前後の米国カリフォルニア州の小都市が物語の舞台で、家族の愛に飢える孤独な青年の姿を描いた作品。兄に劣等感と嫉妬心を持ち、父からも愛されない双子の弟(ジェームズ・ディーン)が主人公です。

この物語の下敷きになっているのが旧約聖書の「カインとアベル(※)」の話です。罪を犯したカインがエデンの東の方向にあった「ノデ」という地に追放されます。

つまり『エデンの東』とは、「流浪の地」や「追放の地」を暗示する語なのです。

 

※「カインとアベル」

カインとアベルは、アダムとイヴの子供。カインは農耕を、アベルは羊飼いをするようになった。ある日、カインは収穫物を、アベルは肥えた羊を神に捧げたが、神はアベルの供物に目を留めたものの、カインの供物は無視した。この事に嫉妬して恨みに思ったカインは、野原でアベルを殺す。この罪により、カインは主の前から去って、エデンの東にあるノデの地に住みついた。

 

 

 

32 の部屋

組曲「ペール・ギュント」  グリーグ

 

ノルウェーの国民的作曲家 エドヴァルド・グリーグ(1843-1907)の代表作で、同国の劇作家イプセンが書いた詩劇『ペール・ギュント』に、グリーグが劇音楽として作曲したものです。詩劇を書いたイプセンは「人形の家」などの作品でも知られています。

劇音楽は1876年に初演されましたが、後、グリーグはその中から特徴的で優れた曲を選び演奏会用の「組曲」として編集しました。組曲は下記のように、第1と第2の組曲から成り、各4曲、計8曲で構成されています。

 

1組曲

 ①朝  ②オーゼの死  ③アニトラの踊り  ④山の魔王の宮殿にて

2組曲

①イングリッドの嘆き  ②アラビアの踊り ③ペール・ギュントの帰郷

④ソルヴェイグの歌

 

《物語のあらすじ》

主人公ペール・ギュントは、貧しい未亡人オーゼの一人息子だが、仕事嫌いの上に乱暴者で、夢想家の大法螺吹きだった。

ペールにはソルヴェイグという純情な恋人がいた。にもかかわらず、ある日、結婚式場から花嫁であるイングリッドを奪って逃げてしまう。ペールはイングリッドと山の上で同棲するが、すぐに飽きて彼女を捨てて放浪の旅に出る。

神秘的な山で魔王の娘を追っかけて魔物が住む宮殿に入り、魔物たちに散々な目にあわされ、逃げる。山中でソルヴェイグに救われ、一緒に山小屋に住む。しかしペールは、そのソルヴェイグも捨てて故郷に帰る。故郷の母オーゼの死が迫っていた

母の死後、ペールはアフリカ(モロッコ)に渡り、砂漠の部族から予言者として迎え入れられ、巨万の富を獲得する。その財産を狙って酋長の娘アニトラが魅力的な踊りで誘惑して財産を全部奪い、ペールを砂漠に置き去りにしてしまう。ペールは、その後も数々の冒険をして、カリフォルニアで再び億万長者になる。

歳月が流れ、老人となったペールは帰郷する。その途中、ノルウェー沖合で嵐のために乗船が難破し、財産を失う。故郷にたどり着いたペールは彼の帰りを待っていたソルヴェイグに会う。ソルヴェイグは彼の過去を許し、やがてペールはソルヴェイグの胸に抱かれつつ、息を引き取る。

 

なお、第1組曲の各曲は、次の内容を表現しています。

 ①朝 

モロッコにあるサハラ砂漠の日の出の情景と明澄な朝の気分

 ②オーゼの死  

ペールの年老いた母オーゼの死と悲しみ

③アニトラの踊り  

酋長の娘アニトラが踊る、妖しく官能的な舞曲

④山の魔王の宮殿にて

魔王の子分のトロル(北欧神話や民話に出てくる精霊・小鬼)たちが集まり、

魔王の娘を弄んだペールを殺せと、殺気立って荒々しく叫ぶ

 

 

 

31 の部屋

蒼いノクターン

 

『恋はみずいろ』など、数多くのイージー・リスニングで知られる、ポール・モーリアPaul Mauriat1925 - 2006年)の代表作の一つです。

ポール・モーリアは、フランスの作曲家やピアニスト、チェンバロ奏者。また、彼が率いるポール・モーリア・グランドオーケストラの指揮者でもありました。

グランドオーケストラで演奏される曲目の作曲者は、ポール・モーリアだけではなく、他の人である場合も多々ありますが、この「蒼いノクターン」はポール・モーリア自身が作曲した曲です。

「ノクターン」は「夜想曲」とも称され、夜の情緒を表現した楽曲です。ショパンの「ノクターン」が一般によく知られ、主としてピアノのための曲であるようなイメージがありますが、ドビュッシーの「夜想曲」など管弦楽曲にも作品が見られます。

「蒼いノクターン(夜想曲)」の語感から、青白い月の光に浮かぶ夜の情景を想い描きます。しかし、原題はただの「Nocturne(ノクターン)」。「蒼いノクターン」は日本での所謂‘邦題’です。誰が「蒼い」を付け加えたのか、気になります。

 

このような例は非常に多く、ポール・モーリアの曲でも次のものがあります。

 

〈邦題〉         〈原題〉

天使のセレナード      La Chanson Pour Anna(アンナの歌)

白い渚のアダージョ     Le Piano Sur La Vague(波の上のピアノ)

薔薇色のメヌエット     Minuetto(メヌエット)

涙のトッカータ        Toccata(トッカータ)

エーゲ海の真珠       Penelope(ペネロペ=ギリシャ神話に登場する女性)

 

 

 

30 の部屋

 

ベートーヴェン「交響曲第7番」

 

ベートーヴェンが42歳であった1812年に完成し、翌年12月、ウィーンでベートーヴェン自身の指揮で初演されました。

 

交響曲第6番「田園」と第9番「合唱」とに挟まれた第7番と第8番は、標題が付いていないために比較的‘地味’な存在かもしれません。しかし、この「第7番」は古典的で保守的な楽器編成(2管編成※)ながらも、作曲の手法、構成と表現に至るまで、ベートーヴェンの9つの交響曲の中で、最も完成度が高い作品だともされます。

 

「リズムの交響曲」とも言われ、第1楽章から第4楽章まで、各楽章それぞれ特徴的なリズムが展開されます。第1楽章は、テレビドラマ「のだめカンタービレ」の主題曲としても使われました。

2楽章は、同音が反復され続けるのにもかかわらず、極めて厳粛で美しい旋律が繰り広げられ、「単純の美」、「不滅のアレグレット」と呼ばれています。葬送行進曲風な雰囲気がありますが、速度記号が「アレグレット(やや快速に)」であるのに加え、交響曲第3番「英雄」第2楽章ではベートーヴェン自身が楽譜に「Marcia funebre葬送行進曲)」と書き込んでいるのに対し、第7番にはそのような記述はありません。従って、葬送行進曲ではないと解釈されるのが一般的であるようです。そもそも、第7番は、全体に明るくエネルギッシュな旋律が際立っている曲で、暗く重たい雰囲気があるベートーヴェンの他の交響曲とは、対照的です。

 

※:フルート、オーボエ、クラリネット、ファゴットが各2名、さらにホルン、トランペットも各2

 

 

 

29 の部屋

シング・シング・シングSing Sing Sing

 

1936(昭和11年に作曲されたスウィング・ジャズのスタンダード曲です。

作曲者のルイ・プリマLouis Prima 1911 – 1978)は、アメリカの歌手でありトランペット奏者であり作曲家です。ジャズの発祥地であるルイジアナ州ニューオリンズに生まれました。

Sing Sing Sing」は、クラリネット奏者の ベニー・グッドマン(Benny Goodman)が率いるベニー・グッドマン楽団が、1938 (昭和13 年にNY・カーネギーホールで演奏して広く世に知られるようになり、以後、同楽団の代表曲という存在になっていきました。

スウィング・ジャズは、‘世界大恐慌(192933年)から第二次世界大戦へと展開していく、暗い時代に大流行しました。街には失業者が溢れ、その人々の閉塞感を癒す音楽であったとも言われています。

Sing Sing Sing」には歌詞があり、冒頭の部分は以下の通りです。これを見ると曲想が把握し易いですね。

 

 

Sing sing sing sing.    歌え、歌え、歌え、歌え

 

Everybody start to sing.   みんな歌い始めろ

 

Now you're singing with a swing  さあ、スウィングしながら歌おう!




28 の部屋

ラヴァーズ・コンチェルトA Lover's Concerto

作詞作曲:サンディ・リンザー  デニー・ランドル

 

1965年にアメリカの3人の女性で構成されるガールズ・グループ「ザ・トイズ」が歌って、人気チャート全米第2位を獲得したことがある、ポピュラー・ソングです。その後、多くの歌手やグループがカバーしていて、日本でも金井克子や尾崎紀世彦、薬師丸ひろ子などが歌ってきました。作詞作曲は、ソングライターのチームを組むサンディ・リンザーとデニー・ランドル。ただしこの曲は、クリスティアン・ペツォールトが作曲した鍵盤楽器のための小品『メヌエット』を基にしています。

クリスティアン・ペツォールト16771733年)は、ドイツ・バロック音楽の作曲家、オルガン奏者で、JSバッハとほぼ同時代の人です。

なお、「ラヴァーズ・コンチェルト」の歌詞の内容は以下の通りです(最初の一部だけ掲載、意訳を付けておきました)。

 

How gentle is the rain  That falls softly on the meadow

草原に優しく降る雨はなんて穏やかなのだろう


Birds high up in the trees
 Serenade the flowers with their melodies
鳥たちが木々の高い所から 彼らのメロディーで花々にセレナーデを歌う

Oh, see there beyond the hill The bright colours of the rainbow

ほら、見てごらん、あの丘の向こうを 色鮮やかな虹が見えるよ

Some magic from above  Made this day for us just to fall in love

天からの魔法が    今日、私たちが恋に落ちるようにした

 

 

27 の部屋

ワルツィング・キャットThe Waltzing Cat・踊る子猫)』 

作曲:ルロイ・アンダーソン

 

シンコペーティッド・クロック(The Syncopated Clock)が作曲されたのが1946年。「ワルツィング・キャット」は、その5年後の1950年に、同じルロイ・アンダーソンによって作られた曲です。「アメリカ軽音楽の巨匠」アンダーソンは、アーサー・フィードラー指揮のボストン・ポップス付きの作曲家として、数多くのコミカルで親しみやすい曲を作曲しましたが、この曲もその一つです。

バイオリンのポルタメント(※)や管楽器などのグリッサンド(※)が猫の「ニャーオ」という可愛い鳴き声を表現し、弦楽器のピチカート奏法や管楽器のスタッカートが、猫が軽やかに跳ね回る様子を表していて、子猫たちが楽しく遊ぶ景色を描いています。最後は、犬に吠えられて子猫たちが一目散に逃げ出します。

 

※「グリッサンド」と「ポルタメント」

『ポルタメント (portamento)』"port."

ある音から他の音へ、跳躍的・音階的でなく、継続的に音を滑らせる様に移る演奏技法。声楽や弦楽器、トロンボーン、スライドホイッスル等で演奏可能な表現方法。一般に、

前の音から後の音へ移る直前まで待って)後ろの音に変わる直前に滑らせます。イタリア語で「運ぶ」という意味です。

 

『グリッサンド(glissandogliss. "

ある音から他の音へ、中間の音を音階的に全て鳴らしながら指を滑らせる演奏方法。主に鍵盤楽器などで行われます。前の音から後ろの音までは、均等の速さで滑らせます。イタリア語で「滑るように」という意味です。

 

 

 

25の部屋  『シンコペーティッド・クロックThe Syncopated Clock)』

作曲:ルロイ・アンダーソン

 

syncopate(シンコペート)」は、リズムや拍、アクセントを意図的にズラして意外感など一定の効果を得る手法のこと。規則正しく一定の間隔で時を刻んでいくはずの時計の音が、完全に狂っている(out of order)程ではないのだけど、なぜか時々ズレている。この様子をコミカルに描写した曲です。

太平洋戦争が終わった翌年の1946年に作曲され、アーサー・フィードラー指揮のボストン・ポップス・オーケストラによって演奏されました。

作曲は、アメリカの作曲家であり言語学者(ハーバード大学博士号)でもあったルロイ・アンダーソン(Leroy Anderson 19081975年)」。彼の作品には「タイプライター」(旧式のタイプライターの作動音を模した曲)があり、軽快でユーモアに富んだ曲調が彼の作品の特徴です。また、「トランペット吹きの休日」も親しみやすい有名な作品で、彼は「アメリカ軽音楽の巨匠」とも称されています。

 

曲の中で活躍するのが打楽器です。

曲が始まると、すぐに‘カッカッカッカッ’と正確な秒針の動きを表現し、時々転ぶようにシンコペーションが入るのは「ウッド・ブロック」。中間部で鳴る目覚まし時計のベルの音は「トライアングル」。曲の最後の箇所で一瞬入る‘カン’という音は「カウベル」(本来は牛の首のベル)。‘ヒューイッ’という音は「スライド・ホイッスル」です。これらによりユーモラスさが盛り上がります。

 

[ウッド・ブロック]  

 

 

[スライド・ホイッスル]

 

 

 

[カウベル]

 

 

 

 

 

24の部屋  喜歌劇「こうもり(Die Fledermaus)」

 

『美しく青きドナウ』『ウィーンの森の物語』などの作品で知られるヨハン・シュトラウス2世が1873年に作曲したオペレッタ(喜歌劇)です。その物語の面白さと音楽の美しさから、ウィンナ・オペレッタの最高傑作とされ、ドイツやオーストリアでは、大晦日や新年のイベントとして、しばしば上演されます。

 

《あらすじ》

ファルケ博士は、その日に開かれる仮面舞踏会の場で、友人である銀行家のアイゼンシュタインに、かつてされた悪戯への仕返しをしようと企む。その悪戯というのは、二人が参加した過去の舞踏会で、「こうもり」の仮装をしたファルケ博士が酔っぱらって道端で寝てしまったのをアイゼンシュタインに置いていかれたことだ。以後、彼は「こうもり博士」という不本意な渾名を付けられてしまった。

仮面舞踏会では、みんな浮気者で異性を口説いたり口説かれたり。変装したアイゼンシュタインも女性を口説くが、相手は迂闊にも変装したアイゼンシュタインの妻ロザリンデだった・・・その他にも様々な展開があり・・・妻ロザリンデも元カレと不倫を計画しており、ひょんなこと(ファルケ博士が仕組んだ罠)からそれを知ったアイゼンシュタインは、翌日、ロザリンデを問いつめる。しかし彼女も昨夜の舞踏会での夫の行為を非難。そこにファルケ博士が現れ、「これが私の仕組んだこうもりの仕返しだ」と暴露する。

 

 

Du und Du】(編曲のベースになっている曲)

 

Du und Du (ドイツ語で「あなたとあなた」・英語のYou and You)は、シュトラウス自身が彼の喜歌劇「こうもり」の中から代表的な7つのワルツ曲を選んで、一つの曲にしたものです。バレエ曲の中から「花のワルツ」など8曲を選んで組曲にした「くるみ割り人形」などと少し似た手法です。シュトラウスは、度々、彼の作品からワルツを取り出して、それらを編曲した上で本来の曲とは別に出版しており、このDu und Duもその一つです。

 

 

 

話題21. 曲目解説 『フニクリ・フニクラ(Funiculi, Funicula)』

                       作曲:ルイージ・デンツァ  

 

 世界で一番古いコマーシャルソングだとされる曲です。

1880(明治13)年、イタリア・ナポリ湾岸にある「ヴェスヴィオ火山」の山麓から火口付近までのケーブルカー(登山電車)が開通しました。ケーブルカーの運営会社が集客のためにCMソングを作って宣伝することになり、イタリア生まれの作曲家でロンドンの音楽院の教授をしていたルイージ・デンツァに依頼してできたのが、この曲です。

「フニクリ・フニクラ」は、このケーブルカーの愛称です。ケーブルカーは、イタリア語ではフニコラーレ(funicolare)、英語ではフニクラー(funicular)ですので、これをもじって付けた名称だと思われます。ちなみに、日本で言うケーブルカー(cable car)は、海外ではロープウエイのことです。

「ヴェスヴィオ火山」とは、古代都市ポンペイを火山灰などで埋没させた、あの有名な火山です。直近では1944年にも噴火しており、ケーブルカー「フニクリ・フニクラ」はこの時に壊滅的被害を受け、営業を終えました。

日本では1961(昭和36)年にNHKの「みんなのうた」で紹介され、その後「鬼のパンツ」などの替え歌が多く作られたのは、ご存知の通りです。

 

 

 

話題20. 曲目解説 『真珠採りのタンゴ』 

                  作曲:ビゼー  編曲:アルフレッド・ハウゼ

  

この曲、元々はオペラ「カルメン」や組曲「アルルの女」等で知られるフランスの作曲家ビゼーが作曲したもので、オペラ「真珠採り」の中の1曲「耳に残るは君の歌声」です。テノールのアリアとして歌われます。

 オペラ「真珠採り」の物語は、セイロン島を舞台に、美しい尼僧となって島に戻ってきたヒロインと、恋敵だった二人の漁師の男(真珠採り)が中心になって展開していく恋と悲劇・・・といった内容です。

  この曲を元に、ドイツのアルフレッド・ハウゼがタンゴ風に編曲したのが「真珠採りのタンゴ」で、全世界的に流行し、原曲であるビゼーのオペラよりも有名になりました。彼が主宰するアルフレッド・ハウゼ楽団はコンチネンタルタンゴを得意とし、「ラ・クンパルシータ」も同楽団のヒットナンバーです。

 

 

 

話題19.  曲目解説 『東京ブギウギ』

                          作詞:鈴木勝  作曲:服部良一   

 

1947(昭和22)年発表、レコード発売は翌年の1月。笠置シヅ子が歌って大ヒットしました。「青い山脈」(歌:藤山一郎)、「リンゴの唄」(歌:並木路子)などと並んで、終戦直後の日本の世相を象徴する歌謡曲として有名です。笠置はこの曲のヒットの後、『大阪ブギウギ』『名古屋ブギ』や『買物ブギ』などのブギシリーズを歌い、ブギの女王と言われるようになりました。

  ところで、ブギウギ(boogiewoogie)とは、そもそも何なのか?・・・よく知らないのでNETで調べてみると、次のように書いてありました。

  1920年代後期にシカゴで流行した、ピアノによるジャズのブルース演奏スタイルの一種。主に黒人が踊っていたダンスの一種でもある。4拍子のシャッフルやスイングのリズムによる反復フレーズで、テンポの速い陽気なジャズピアノ曲』

 

でも、この説明だけでは、どんな音楽を言うのか具体的にハッキリ分かりません。だれか説明できる人、教えて下さい。

  ついでに「Boogie」を英和辞書で引くと、こう書いてありました。名詞としては、けっこうヒドイ意味が含まれているようです。 

   【Boogie】 [:gi

  [名詞]

    1  (俗・軽蔑語で) 黒人

    2  = boogie-woogie.

    3  (俗語で)鼻くそ

     [動詞]

         1   ロックに合わせて激しく踊る

         2   急いで行く

 

 

 

話題18.  曲目解説 『ソラメンテウナベス』

 

 「ソラメンテ・ウナ・ベス」これはスペイン語で「Solamente Una Vez」と書くようです。私はスペイン語を全く知らないので辞書を引くと、

   Solamente は、ただ一つの  唯一の  ~のみ(英語の only )

   Una は不定冠詞 (英語の a  an に相当) 

   Vez は、時間。 (英語なら time ) です。

 これにより「 Solamente Una Vez 」は、「ただ一度だけ」という意味になるらしいです。

  この曲は、メキシコの大作曲家でありボレロの演奏家であった アグスティン・ララ

Agustín Lara1897–1970年)が、1941年に映画音楽の挿入歌として作曲しました。

「ただ一度です 愛しました 人生で 」といった調子の歌詞が続き、一途な愛と人生の寂寞を歌ったものとされています。当時、メキシコやキューバで非常な人気を博しました。なお、ドナルドダックが主人公のディズニー映画「三人の騎士」(1944年公開)の中でも、この曲が使われています。

 

 

 

話題17. 曲目解説 『カントリーソング・メドレー』

  

今、取り組んでいる『カントリーソング・メドレー』は、「カントリー・ロード」 「幸せの黄色いリボン」 「ジャンバラヤ」の3曲によって構成されています(と、Fl-Tさんに教えてもらいました)。 では、それぞれどんな曲なのか

 

1. カントリー・ロード

 原題名は『Take Me Home, Country Roads』。1971年にアメリカのシンガーソングライターであるジョン・デンバー(John Denver 19431997年)によって歌われ、全米で大ヒットした曲です。

歌の内容は、米国の東海岸の中央に位置するウエストバージニア州の情景と望郷の念を歌い込んだものです。その後、多くの歌手によってカバーされていますが、日本ではジブリの映画『耳をすませば』の挿入歌としても有名です。

 

2. 幸せの黄色いリボン

原題は「Tie a Yellow Ribbon Round the Old Oak Tree(古いオークの木の幹に黄色いリボンを結んで)」1973年にアメリカンポップスのグループ「ドーン(Dawn)」が発表して歌った曲で、全米で爆発的なヒット曲となりました。

歌詞(一部)の意味は次の通りで、ある物語を基にしています。

 

  僕は刑期を終えて 家に向かうバスの中

  手紙で伝えたとおり 僕は近々出所する

  もし君がまだ僕を必要としてくれているなら

  古いオークの幹に  黄色いリボンを結んでおいて欲しい

 

あれっ?どこかで見聞きしたことのあるような・・・。

そう、高倉健が主演した「幸福の黄色いハンカチ」(1977年公開)は、この曲で歌われている話をベースにしたものだったのです。リボンがハンカチに入れ替わり、家に向かうのに乗っていたのは、バスではなく武田鉄矢が運転する赤いマツダ・ファミリアでしたが。

 

 3.  ジャンバラヤ

カントリー音楽の名歌手ハンク・ウィリアムズ(Hank Williams)が1952年に作曲した曲です。1973年にカーペンターズによってカバー・リリースされて一段と有名になりました。 ジャンバラヤ(jambalaya)というのは、お米を使ったアメリカの南部ルイジアナ州ケイジャン地方の郷土料理です。スペインのパエリアに似ていて、スパイシーな味付けになっています。

曲は、「この料理を食べて友を送り出そう」といった内容で、歌詞(一部)は以下の通りです。聴くだけでも感じますが、こうして見ると、見事に韻を踏んだ歌詞であることが分かります。

 

Good-bye, Joe, me gotta go, me oh my oh    さよなら ジョー 俺 行かなくちゃ

Me gotta go pole the pirogue down the bayou.  ボートをさおで押して入江を下ろうぜ

My Yvonne, the sweetest one, me oh my oh  俺のイヴォンヌ最高に素敵なやつだけど

Son of a gun, we'll have big fun on the bayou くそったれ俺達も入江で楽しい事をしよう

 Jambalaya and a crawfish pie and file' gumbo ジャンバラヤとザリガニ・パイとオクラ包み料理

以下、略

 

 

 

話題16. 曲目解説 『少年時代』     作曲:井上陽水

  

9909月に発表・発売された井上陽水の代表曲の一つで最大のヒット曲。最初はパッとしなかったものの、ソニーのビデオカメラのテレビCMの音楽に使われたことから人気が急上昇しました。

 「歌詞」

 夏が過ぎ 風あざみ 誰の憧れにさまよう  青空に残された 私の心は夏模様


夢が覚め 夜の中 永い冬が窓を閉じて 呼びかけたままで 夢はつまり 想い出のあとさき夏まつり 宵かがり 胸のたかなりにあわせて  八月は夢花火 私の心は夏模様

目が覚めて 夢のあと 長い影が夜にのびて 星屑の空へ
夢はつまり 想い出のあとさき

 

 どんな情景や心情を歌っているのか判然としない、幻想的な(悪く言えば、意味不明な)歌詞です。ここに出てくる「風あざみ」「夏模様」「宵かがり」「夢花火」などは、有りそうで現実にはない言葉で、井上陽水が独自に作った造語だとされています。しかし、この意味がハッキリしない、でも響きの良い単語が、アンニュイな感じのメロディーと上手く合致しているように思います。

 

 

 

話題15. 曲目解説  唱歌「早春賦」

                      作詞:吉丸一昌   作詞:中田章

  1913(大正2)年に発表された唱歌で、2007年には「日本の歌百選」の一曲に選定されています。

 作詞の吉丸一昌は、尋常小学校唱歌の編纂時の作詞委員会委員長で、東京音楽学校 (現 東京芸大)の教授。作曲の中田章も東京音楽学校の教授で、「ちいさい秋見つけた」「めだかの学校」などを作曲した中田喜直の父親です。

 この曲の歌詞は、吉丸一昌が訪れた長野県の安曇野(松本盆地の西部)の景色に感動して作った詩が元になっていると言われています。白い雪を戴く槍ヶ岳や奥穂高岳が見える場所です(穂高川の土手に歌碑が建っています)。また曲名の「早春賦」の「賦」は、漢詩の体裁の一つで、感動をありのままに述べたもの。「早春賦」とは「早春の頃の情景に 対する感動の詩」くらいの意味です。このため、歌詞は漢文調ですので、少々分かりづらい箇所もあります。念のため現代語の対訳を付けておきました(上手な訳になっているか分かりませんが)。

 

春は名のみの 風の寒さや     春とは名ばかりで 風が寒いことだ

谷の鶯 歌は思えど        谷のウグイスも歌おうと思うのだけども

時にあらずと 声も立てず      今はまだ早いと(考えて) 声も立てない

時にあらずと 声も立てず


氷解け去り 葦は角ぐむ       氷は解け去って 葦の芽が(ツノのように)出始める

さては時ぞと 思うあやにく       いよいよ春が来たぞと 思ったが 折り悪く

今日も昨日も 雪の空          今日も昨日も 雪の空になってしまった

今日も昨日も 雪の空


春と聞かねば 知らでありしを     既に春が来ているということを聞かなかったら

                  気が付かないでいたであろうに

 

聞けば急かるる 胸の思いを      聞いてしまったので急かされてしまうじゃないか

                  私の心を

いかにせよとの この頃か       どうすれば良いと言うのか 今頃(の季節)は

いかにせよとの この頃か

 

 

 

話題14. 曲目解説  唱歌 『 春の小川 』

 

 1912年に発表された文部省唱歌です。作詞は国文学者でもあった高野辰之、作曲は岡野貞一だとされています(文部省唱歌は、作詞者や作曲者を明示しないことが多い)。尚、高野辰之が作詞し、且つ岡野貞一が作曲した作品には、他に、『ふるさと』、『春が来た』、『朧(おぼろ)月夜』、『紅葉(もみじ)』などがあります。

  さて、この「春の小川」は、当時、作詞した高野辰之が住んでいた東京府豊多摩郡

代々幡村(現在の渋谷区代々木)を流れる河骨川(こうほねがわ)」の情景がモデルに

なっているとされています。

 河骨川というのは、渋谷川の上流にあたり、代々木4丁目付近で宇田川に合流し、その宇田川が西原2丁目付近で渋谷川に流入して渋谷駅の近くを通り、JR浜松町駅付近で東京湾に注いでいます。ただし、河骨川や宇田川のほとんどは、戦後になって悪臭が酷かったため、東京オリンピックの頃から暗渠となっています。もちろん、唱歌「春の小川」が作曲された頃(1912年)の代々木は、(歌詞にあるように)まだまだ田園風景が広がり、河骨川の流れも清らかでした。

 因みにこの1912年とは、明治45年すなわち大正元年であり、4月にタイタニック号が

氷山に衝突して沈没し、日本がオリンピックに初参加したストックホルム大会が5月に

開催され、7月に明治天皇が崩御され、それを追って9月に乃木大将夫妻が殉死した

年です。

 今、小田急線の代々木八幡駅付近の線路沿いには、『春の小川』の歌碑が建てられて

います。

 

 

 

話題13. 曲目解説 「時計(El Reloj )」(時計を止めて)

  

世界的に大ヒットしたラテン・ポップスの名曲です。メキシコの3人グループ、「ロス・トレス・カバジェロス」により歌われた作品で、1957年に、同グループのリーダーであるロベルト・カントラール(1935-2010)が作詞・作曲しました。

 日本では、 1970年代にアルゼンチンからやってきた歌手・ギタリストのグラシェラ・スサーナが、たどたどしい日本語だけど味わいある声で歌ったのが人気になりました(この時の曲名が「時計を止めて」)。

 『歌詞』

私たちのために 時計を止めて いつまでも今宵が 過ぎないように
あなたと二人で 過すこの夜は Y () Tu (トゥ) Tic (ティック) Tac (タック)
悲しみ やるせない想い
時計よ! お前よ! 心あるならば 二度とない この時を過ぎないでおくれ
過ぎゆく時は かえらぬ想い出 だからお願い 時計を止めて

 

 

 

話題12. 考察「ポピュラー」と「クラシック」

 

 「クラシックからポピュラーまで幅広いジャンルの曲を和気あいあいと合奏している楽団です」・・・これは当楽団の団員募集の文言の一部ですが、そもそも「ポピュラー」と「クラシック」って、何なのか? その言葉の意味を改めて調べてみました。

 

 ポピュラー音楽とは、ジャズ・ロック・ハワイアン・ラテン・シャンソン・カンツォーネなど、所謂クラシックや民俗音楽以外の「大衆音楽」の総称。軽音楽、ポップスなどとも言います。「ポピュラー(popular)」の単語を国語辞典や英和辞典で調べると、こう書いてあります。 

1.民衆の、庶民の  2.大衆的な、通俗的な  3.一般によく知られていること、人気のあること、流行の  4 .ありふれていること

  英語の「popular」の語源は、ラテン語で「国民」や「人々」という意味の「populus」で、「people(人々)」や「populism(ポピュリズム)」、「population(人口)」なども、これから派生した語です。 

 

では、クラシック(classic)とは、どういう意味の言葉なのでしょう?4年毎に開催され、今年も日本チームの活躍が期待される「ワールド・ベースボール・クラシック(WBC)」。ここにも「クラシック」が使われています。他に、ゴルフ大会の「〇〇クラシック」や競馬の皐月賞や菊花賞などの「クラシック・レース」もあります。

 クラシックの語源は、ラテン語で「classici」。これは古代ローマにおける「最上の市民階級」を指す言葉だそうです。これが現在の英語「classic」(クラシック)へと変化していきました。「学級」や「階層」という意味でも使う英語の「class(クラス)」も同じ語源で、これ自体で「高級、第一流」の意味も持っています(と、辞書に書いてあります)。

 野球やゴルフ、競馬に付けられた「クラシック」は、由緒正しい’‘伝統ある’‘第一級の競技大会である、という(主催者側の)表意であると言えます。「クラシック音楽(英語ではclassical music)」も同様で、「正統な純粋音楽」という位置づけです。

 そう言えば、文芸の世界において、芥川賞が「純文学作品」に、直木賞が「大衆文芸作品」に対する賞となっていますが、クラシックとポピュラーの関係は、これに似ているように思います。 

これまで「クラシック」=単に「古いもの」や「古典」だと思い込んでいませんでしたか?

 

 

 

話題11. 曲目解説 「シェルブールの雨傘」

                           作曲:ミシェル・ルグラン

 

 1964(昭和39)年に製作されたフランスのミュージカル映画の主題曲(主題歌)です。日本での公開は同年の104日(と言うことは、東京オリンピック開会式の6日前。東海道新幹線開業の3日後だった訳ですね。なつかしい時代です)。

 全編が音楽と歌のみで、一切セリフがないのがこの映画の特徴です。第17回カンヌ国際映画祭でグランプリ(パルム・ドール)を受賞しました。監督はフランスの名匠ジャック・ドゥミ。 主演(ヒロイン)のカトリーヌ・ドヌーヴは、この映画のヒットから世界的大女優への道を辿っていくことになります。

 作曲者のミシェル・ルグランは、フランスの作曲家・ジャズピアニストで、映画音楽では他に「華麗なる賭け(風のささやき)」「栄光のル・マン」などがあります。

 [物語の概要]

 1950年代のフランス北西部の港町シェルブールで、互いに愛し合っていた傘屋の娘ジュヌヴィエーヴ(カトリーヌ・ドヌーヴ)と自動車修理工の若者ギイ(ニーノ・カステルヌオーヴォ)は、ギイに召集令状が来たされた戦争(アルジェリア戦争:フランスの支配に対するアルジェリアの独立戦争)に引き裂かれる。

出兵前夜に結ばれ、ギイとの愛の結晶も宿したジュヌヴィエーヴだが、ギイの2年間の不在は彼女にとって堪え難いものだった。やがて、それぞれ別の相手と結ばれ、別々の人生を歩いて行く・・・と、こんな感じの悲恋物語です。

 

 

 

話題10. 曲目解説 「見上げてごらん夜の星を」

詞:永六輔 作曲:いずみたく

 

 元々は、1960(昭和35)年に上演されたミュージカル「見上げてごらん夜の星を」の主題歌で、劇中でコーラスグループが歌っていました。これを坂本九が歌い、シングルレコードとして出したら大ヒット。日本レコード大賞を受賞しました。1963年には映画化もされました。

 物語は、定時制高校に通う高校生たちの生活や恋など様々な青春像がテーマで、「苦労をしながらも、学べる喜びと楽しさが表現されている」作品だとされています。

 坂本九は1941(昭和16)年、川崎市で両親の「第9子」として生まれましただから名前が「九」。「上を向いて歩こう」「明日があるさ」など数多くのヒット曲を出しましたが、1985(昭和60)年8月の日航ジャンボ機が御巣鷹山に墜落した事故で、帰らぬ人になってしまいました。 

[歌詞]

見上げてごらん夜の星を 小さな星の小さな光りが

ささやかな幸せを唄ってる

見上げてごらん夜の星を ボクらのように名もない星が

ささやかな幸せを祈ってる

手をつなごう ボクとおいかけよう夢を 二人なら 苦しくなんかないさ

見上げてごらん夜の星を  ボクらのように名もない星が

ささやかな幸せを祈ってる

 

 

 

話題9. 曲目解説 『80日間世界一周』  作曲:ヴィクター・ヤング

 

  1990(平成2)年まで30年余に亘って放送されたテレビ番組「兼高かおる世界の旅」  覚えていますか? あのテーマ音楽もこの曲でしたね。

この曲は、ご存知の通り、1956(昭和31)年に製作されたアメリカ映画「Around the World in 80 Days」の主題テーマ曲です。映画は最優秀作品賞などアカデミー賞5部門に輝きました。その中には、この曲によって獲得した最優秀音楽賞も含まれています。

作曲者のヴィクター・ヤングは映画音楽を数多く手掛けており、『誰が為に鐘は鳴る』  『サムソンとデリラ』『シェーン』などの作品があります。また映画の原作は、フランスの冒険小説家ジュール・ヴェルヌの小説です。ヴェルヌの作品には他に『海底2万里(マイル)』『十五少年漂流記』などがあります。どれも小学校の頃にワクワクしながら読んだ懐かしい物語です。

[物語の概要]

1872年のロンドン。資産家のフォッグ氏は、友人と「80日間で世界を一周できるか否か」で大金の賭けをした。成功に自信があるフォッグ氏は、召使いを従えてイギリスから出発。  途中、様々な危機や事件、トラブルなどに見舞われながらも、スエズ、ポンペイ、香港、上海、横浜、サンフランシスコ、ニューヨークを経由して、ロンドンに80日ギリギリで帰着する。その結果、彼は賭けに勝つ。

 

 

 

話題8. 曲目解説 唱歌 『冬景色』

 

  1913(大正2)年に発表された文部省唱歌(旧、尋常小学唱歌)です。2007(平成19)年には「日本の歌百選」にも選ばれました。

 

 この曲の作詞・作曲は共に不詳です。そもそも、文部省唱歌(特に明治・大正期の尋常小学唱歌)には、作詞者・作曲者が不詳のものが多いのですが、これは当時、唱歌の編纂を国策として推進し、文部省(国)が作った歌であるという位置づけであったためで、作詞者・作曲者の名は公表せず、作者本人も口外しない旨の契約を交わしていたようです。ちなみに、作詞者・作曲者が不詳の唱歌の例として、次の曲があります。

  ・仰げば尊し(仰げば尊し~)  ・浦島太郎(昔々浦島が~) 

  ・茶摘み(夏も近づく~)  ・雪(雪やこんこ霰や~)

 

『冬景色』の歌詞は下記の通りです。

品のいいメロディーですが、歌詞は漢詩の読み下し文のようで、少々難解です。

 

[一番] さ霧消ゆる 湊江(みなとえ)の  舟に白し 朝の霜
ただ水鳥の 声はして  いまだ覚めず 岸の家

 

[二番] 烏(からす)啼(な)きて 木に高く 人は畑(はた)に 麦を踏む
げに小春日の のどけしや  かへり咲(ざき)の 花も見ゆ

 

[三番] 嵐吹きて 雲は落ち  時雨(しぐれ)降りて 日は暮れぬ
若し灯火(ともしび)の 漏れ来ずば それと分かじ 野辺(のべ)の里

 

  一番は、海か湖の岸辺の早朝の様子。凛とした寒さが感じられます。文頭の「さ霧」は、「狭霧」とも書きますが、この「さ」は(調子を整える)接頭語で、意味は持っていません。つまり、「さ霧」=「狭霧」=「霧」です。

 二番は、暖かな小春日和の昼の畑の様子が描かれています。「かへり咲(返り咲き)」というのは、「本来は春に咲く花が、小春日に誘われて時節でもないのに秋に再び咲くこと」をいいます。いわゆる狂い咲きですね。

 三番は、日が暮れてあまり時間が経っていない頃の夜、冷たい雨が横殴りに降ったり止んだりしている里の風景です。 

「冬景色」という語の語感から、真冬の白く雪が積もった景色を連想しがちですが、この曲はそうではなく、初冬の景色を歌い込んだもので、雪も積もっておらず霜が降りているだけです。(小春日や時雨は、晩秋から初冬の気象です)

 

 

 

話題7. 曲目解説 『愛の賛歌』

 

作詞者 エディット・ピアフ  作曲者 マルグリット・モノー

リリース 1950   録音 1950 52 フランス・パリ

 

フランスのシャンソン歌手 エディット・ピアフが自ら作詞し、歌った曲です。

 原題はフランス語で「Hymne à L'amour(イムヌ・ア・ラムール 意味:愛への賛歌)」。シャンソンを代表する曲として世界中で親しまれ、多くの歌手によってカバーされています。日本では岩谷時子の訳詞により越路吹雪が歌ったのが特に有名で、結婚式で歌われることも多いようです。

この曲、変化に富んだ美しいメロディーですが、歌詞の内容も見てみましょう。

岩谷時子の訳詞は以下の通りです(フランス語原文による歌詞の意味は少々異なっています)。ちなみに岩谷時子は、作詞家であり越路吹雪のマネージャーでもあった人で、「君といつまでも」加山雄三、「ベッドで煙草を吸わないで」沢たまき、「おまえに」フランク永井など多くの曲の作詞をしています。

 

あなたの燃える手で あたしを抱きしめて    ただ二人だけで 生きていたいの    
ただ命のかぎり あたしは愛したい    命のかぎりに あなたを愛したい    
頬と頬よせて 燃える口づけを 交わす喜び 交わす喜び    
あなたと二人で 暮らせるものなら なんにもいらない なんにもいらない 
あなたと二人で 生きていくのよ   あたしの願いは ただそれだけよ あなたと二人
固くいだき合い 燃える指に髪を  絡ませながら 愛しみながら    
口づけを交わすの 愛こそ燃える火よ   あたしを燃やす火 心溶かす恋よ

 

なかなか情熱的な詩です(エディット・ピアフのオリジナルの詩の方は、一段と壮絶で背徳的ですが)。この情熱はどこから来るのか

・・・ピアフには不倫の関係にあったプロボクサーのマルセル・セルダンという恋人がいましたが、その彼が1949年に飛行機事故で死にます。この曲はセルダンの死を悼んでピアフが作詞したとも言われています。一方、妻子ある彼との終止符を打つために書かれたものともされ、どちらが正しいのか分かりません。まあ、どちらにしても、そのような尋常ではない事情があったことを、あの情熱的な歌詞が物語っているように思います。

 

 続・紅白歌合戦の『愛の賛歌』

 

2016年大晦日の『第67NHK紅白歌合戦』をご覧になりましたか?

紅白初出場となった女優の大竹しのぶが、「愛の讃歌」を目に涙を溜めながら熱唱していましたね。あの時の歌詞が、越路吹雪などが歌う(日本ではポピュラーな)歌詞と異なっていたのに気付きましたか?大竹しのぶが歌った歌詞こそが、作詞者エディット・ピアフの元々のフランス語の歌詞に、より忠実に(日本語に)訳したものです。つまり、オリジナルに近いものです。

 見比べてみましょう。

 

〇大竹しのぶ(オリジナル)バージョン(訳詞:松永祐子)

 たとえ空が落ちて 大地が崩れても
怖くはないのよ あなたがいれば
あなたの熱い手が 私に触れるとき
愛の喜びに私は震えるの

あなたが望めば 世界の果てまで行ってもいいわ
髪の毛も切るの 家も捨てるわ 友達さえも
祖国も裏切る 怖いものはない あなたがいれば
あなたの他には何にもいらない この命さえも

いつかあなたが去り 死んでしまっても
嘆きはしないわ また会えるから
私にも死が訪れ 青い空の向こうで
愛し合う二人は二度と離れない

神は結び給う 愛し合う二人を

  

〇越路吹雪 バージョン(作詞:岩谷時子)

 あなたの燃える手で あたしを抱きしめて   

ただ二人だけで 生きていたいの   
ただ命のかぎり あたしは愛したい    

命のかぎりに あなたを愛したい   
頬と頬よせて燃える口づけを 

交わす喜び交わす喜び   
あなたと二人で暮らせるものなら なんにもいらない 
あなたと二人で生きていくのよ 

あたしの願いはただそれだけよ あなたと二人
固くいだき合い燃える指に髪を  

絡ませなが 愛しみながら   
口づけを交わす愛こそ燃える火よ   

あたしを燃やす火 心溶かす恋よ

 

エディット・ピアフの詩は、壮絶で攻撃的、さらに反社会的でもありますね。この曲が結婚式などで歌われることは、前回のこのブログでも書きましたが、この二つの内、どちらの歌詞の方が(結婚式の場で)相応しいか?・・・おそらく後者でしょう。オリジナルバージョンが日本で広まらず、越路吹雪バージョンが一般に定着しているのは、ここに原因があるようです。

 

 

 

話題6. 曲目解説 ドヴォルザーク作曲「スラヴ舞曲」

 

ドヴォルザークの「スラヴ舞曲集」には、「第1集・作品46」(1878年に出版)と、「第2集・作品72」(1886年に出版)があります。第1集・第2集ともに8つの曲から成っていますので、合計すると16曲あるわけです。

個々の曲の番号は、第1集・第2集のそれぞれで第1番から第8番と称する場合(ex. 第2集の5番)と、第1集と第2集の全16曲が1番から16番までの通し番号で呼ばれる場合とがあります。

 今回、練習を始めた曲は、第2集(作品72)の2番目の曲です。通し番号で言うと「第10番」になります。皆さんに配布された楽譜の表題に「op. 722 」と記されているのは、このことを表しています。

 

この曲は、当時、親交の深かったブラームスの「ハンガリー舞曲集」に刺激を受けて作曲されたと伝えられています。元々は、ピアノ連弾曲として書かれましたが、後にドヴォルザーク自身によって全曲が管弦楽曲へと編曲されました。

  スラヴ舞曲とは、言うまでもなくスラヴ地域に住む民族の舞踏音楽です。「スラヴ」の地理的な広がりは、東側は黒海の北に位置するウクライナやベラルーシ、ロシア。西側はポーランドやチェコなどの東欧諸国。南側はブルガリアやアルバニア及びセルビアやクロアチアなどのバルカン諸国を含む、かなり広い地域です(世界地図を見て、確認しておきましょう)。

ドヴォルザークの「スラヴ舞曲集」は、作曲者がチェコの出身なので、全16曲の多くがスラヴ地域の中でもチェコ(ボヘミア)の舞曲に基づいて作られていて、郷土色を深く充溢させています。ただし、第2集の2番(第10番)はそうではなく、ウクライナに起源を持つ曲だとされています。

 

 

 

話題5 楽器名の由来

 

他人が演奏している楽器はもちろん、自分の楽器でさえ知らないことだらけ。

例えば、楽器の名前の由来や語源。ピアノが「ピアノ・フォルテ」(piano-forte)に由来している事くらいは、誰でも知っているでしょうが、それ以外となると、ちょっと自信がないかも。

 

【弦楽器編】

1. 擦弦楽器

バイオリン(Vl violino

 言うまでもなく、オーケストラの最枢要楽器で、弦楽器の盟主格そんなイメージが強いですが、

楽器名は「viola+ino(小さいという意味の接尾語)」で成っていて、意味はそのまま「小さなビオラ」です。そう、弦楽器一族の中ではビオラが本家でバイオリンは分家なのです。

 

コントラバス(Cbcontrabasso

 ダブルベースとか単にベースとも呼ばれます。コントラバスの「コントラ」は、「~に対して」「逆に」という意味の副詞または前置詞。音楽用語としては「特別に」「相対的に(他の楽器に対して)一段と」という意味として使われます。従って、コントラ・バスは「一段と低いバス」という意味です。ファゴットにも特に音の低い「コントラ・ファゴット」があります。

元々は「ヴィオローネ」と呼ばれた楽器で、これが進化したのが現在のコントラバスです。

その「ヴィオローネ(violone)」とは、「ビオラ(viola)+one(大きなという意味の接尾語)」で、「大きなビオラ」という意味です。

 

チェロ(VlcCello violoncello 

 コントラバスのご先祖様である「ヴィオローネ(violone)」の小さいヤツ=「ちいさなヴィオローネ」

の意味を持つのがチェロです(violone + -ello小さなという意味の接尾語)。上記のように、そもそもヴィオローネは「大きなビオラ」という意味でしたから、「チェロ(Violoncello)」は「小さな、大きいビオラ」という意味になります。ややこしいですね。

 

ビオラ(Vlaviola

 では、上掲の弦楽器の名前の基になっているビオラの語源は?と言うと、これが良く分からないのです。

一説には、ビオラの胴体の部分の形がスミレの花に似ているため、この名が付いたということです。

三色スミレの内、花が大きいのをパンジー(pansy)、小さな花が咲くのをビオラ(viola)と言いますね。

また、スミレは英語でviolet(バイオレット)ですが、イタリア語では「viola」です。花も楽器もスペルは同じです。なお、花の「viola」は、ラテン語の「vitulor(大いに喜ぶ)」を語源にしているという説もあるようです。

 

2. 撥弦楽器

ギターGt. Guitar

相当古い歴史を持つ楽器です。中東を起源とし、その後欧州に伝わり楽器として発展した「リュート」がギターのご先祖様だそうです。

名称の由来は、古代ギリシャ語の「kithara(キタラ)」からアラビア語の「gitara」、

さらにスペイン語の「guitarra」、そして英語の「Guitar」へと変遷していったらしいのですが、最初の「キタラ」にどのような本来の意味があったのかは、不明です。

 

マンドリンMand. mandolino)

ギターと同じようにリュートから派生した楽器です。

マンドリン属には「マンドラ(Mandora)」という楽器があり、現在でもマンドリン・アンサンブルなどで弾かれています。この「マンドラ」が小型化されたのがマンドリン(mandolino)です。名称は、「バイオリンがビオラの小さいやつ」だったのと同じように、「マンドラ(Mandora)」+小さいという意味の接尾語(ino)」=「マンドリン(mandolino))となっています。では、そのマンドラの語源は何か? 

イタリア語で木の実のアーモンドの事を「mandorla」というのですが、これが語源だそうです。そう言えばマンドリンの胴体はアーモンドに似ていないこともないですね。

もう一つ。キリスト教の絵や彫刻に、キリストの背後に楕円形で全身を包むような光(後光)が描かれているものがありますが、あの楕円形の後光も「マンドラ」と言うのだそうです。

関係があるのか否か、よく分かりませんが。

 

【管楽器編】 

1.木管楽器

 フルート( flauto  flute[] Fl )

オーケストラの内部用語では「笛」と呼ばれることもあります。冬に強い風が吹き付けて、竹柵の先などからヒューと音が聞こえる現象を「虎落笛(もがりぶえ)」と言いますが、この発声原理を応用したのが「笛」です。「笛」と言うと、小中学校の授業で演奏したリコーダー(縦笛)を思い浮かべますが、歴史的には縦笛の方が古く、横笛であるフルートの方が新しいようです。オカリナや尺八、ホイッスル等も笛の仲間です。

フルートの語源は、イタリア語の「fiato」(呼吸、息という意味)だとされています。その「fiato」も、元々は日本語で言えば「ヒューヒュー」といった(風の流れを模した)擬声語であるようです。英語のfluid(流体)、flush(水がほとばしる)、flux(流れ)などの単語も、その派生形であると思います。

なお、フルート属の一つに「ピッコロ」がありますが、本来は「flauto piccolo」が正式名称で、「piccolo」は「小さい」という意味。つまり、「小さなフルート」がピッコロです。

 

○  オーボエ(Oboe Ob

二枚のリードが振動して音が出る「ダブルリード楽器」の代表格です。黒い管体の周囲にびっしりとキーなどの金属部品が蝟集し、楽器の構造は極めて複雑ですが、意外なことに、オーケストラで使われる管楽器としては、最も古い歴史を持っているようです。

名称の由来は、フランス語の「高い木」を意味する「haut bois」だとされ、転じて「高音(または大きな音量)の木管楽器」という意味もあるようです。この「haut bois」がどのようにして、イタリア語や英語で表記する「Oboe」に転化していったのかは、よく分かりません。

 

○  クラリネット(clarinetti  clarinet[] Cl )

クラリネットは、17世紀前半に発明されたものの、実用的な機能を持つのは18世紀中ごろに改良されてからで、比較的新しい楽器です。使われ出すのはモーツアルトの最後期に位置する交響曲39番あたりから。それ以前の古典派の曲ではほとんど使用されていません。

 さて、今は滅多に使われない「クラリーノ・トランペット」という楽器があります。

小型のトランペットをホルンのように渦巻き状にしたような形をしています。クラリネットの名称は、この「クラリーノ (Clarino)・トランペット」に音色や音域が似ていたことから、(Clarino)(et小さいを表す接尾語)=(Clarinet)と、なったようです。なお、「クラリーノ (Clarino)」という語は、英語の「clear(澄んだ、透明な)」や「clean(清潔な)」等と、語源を同じくするものと思われます。

 

 ところで、「クラリーノ」と言えば、繊維・化学会社「クラレ」の人工皮革を連想してしまいます。クラリーノは同社が1964年に開発した製品で、ビジネスシューズやランドセル、家具などの素材として使われています。あの人工皮革と渦巻き状の小型トランペットと、何か関係があるのか?

・・・勿論、人工皮革のクラリーノは、「クラレ」という社名に引っ掛けて考え出されたものであろうことは容易に想像できますが、果たしてそれだけなのか?・・・調べてみました。

クラレは、同社のホームページで、次のように述べています。

クラリーノの名前の名付け親は当時社長の大原 總一郎。トランペットの古い型の 吹奏楽器が由来で、「ただ新しいだけでなく、その製品の本質に対して、古典的な価値を 持たせたい」そんな想いがあります。クラレというオーケストラの中で勇壮に ファンファーレを奏でるトランペットのような活躍を期待して名付けられました。』(クラレのHPより)

 

な~るほど、大原社長は音楽の歴史についても造詣が深かったようですね。ちなみに、「クラレの」旧社名は「倉敷レイヨン」。大原社長は、倉敷の大原美術館の理事長でもありました。 

○  サクソフォーン( Saxophone[] sax )

 略して「サックス」とも呼ばれます。19世紀の中ごろにベルギーのアドルフ・サックス氏(18141894)によって考案された、新しいタイプの管楽器です。もう、言うまでもなく「サクソフォーン」の名称は、考案者サックスの名前「sax」と、「音」を意味する「phone」の合成語です。

 ところで、サクソフォーンは金管楽器ではなく、クラリネットの親戚である木管楽器です。クラリネットの柔らかく美しい音色を、もっと大きな音量で、簡単な操作で出すために創りだされたもので、クラリネットとほぼ同じ一枚のリードを使って音を出します。

 

○  ファゴット(Fagotti  bassoon [] Fg )

 オーボエと同様にダブルリードの管楽器で、まろやかで豊かな低音が魅力です。「ファゴット」または「バスーン」と呼ばれますが、この内「ファゴット」は、長い木の管を二つ折りにした形であることから「束ねられた木・薪の束」を表すフランス語「ファゴッテ(fagottez)」に、また「バスーン」は低音を表わす語「バス(Bass)」に由来します。かつては(昔は)「バスーン」と称されることが多かったようですが、最近は「ファゴット」と呼ぶのが一般的になりつつあるようです。

 

2.金管楽器

 ホルン (Cor. Corni

 金管楽器の盟主格。ふくよかで優しくも堂々とした音色が特徴です。ホルンには多くの種類が ありますが、一般的にオーケストラの楽器として使用されるのは「フレンチホルン」です。

 ホルンの起源は、動物の角を使って作った角笛(つのぶえ)で、英語やドイツ語で「horn」、 イタリア語では「コルノcornocorni」と呼ばれますが、これらは本来「獣の角」という意味です。

 ちなみに、トランペットに似た「コルネット」という楽器がありますが、あれは、このホルンを意味するイタリア語の「corno」に縮小接尾語の「-etto」が付いたもので、「小さなホルン」の意です。

 

 トランペット(Tr. trompe[伊] trumpet[英])

 貝殻(巻貝?)の一種を意味する「strombos」というギリシア語が語源で、それが 「trompe」(伊)へと変化したとされますが、よく分かりません。

ところで、英語の「trumpet」には、楽器のトランペットと言う意味の他に、「ゾウの鳴き声(パォ~ン)」という意味があります(中学生の時の音楽の先生が教えてくれました)。

 

 

 

話題4  『音響効果』

 

「アイホームまつど中央」食堂の音の響きには驚きましたが、音響効果の良い「世界三大コンサートホール」というのがあり、それは次の三つだそうです。もっとも、このようなものには主観が著しく入るでしょうし、そもそも世界三大~だとか日本三大~だとかには根拠に乏しいものも多いので、あてになりませんが。

 

・ウィーン楽友協会大ホール(1,680席、1870年築) オーストリア

・アムステルダムコンセルトヘボウ (2,037席、1888年築)  オランダ

・ボストン シンフォニーホール(2,625席、1900年築) アメリカ

 

因みに、近場では、錦糸町の「すみだトリフォニーホール」の音響が専門家からも高く評価されているようです(私自身もこの評価には納得)。

 

 

 

話題3 「ちいさい秋みつけた」考

 

この曲は、NHKの依頼で作曲され、昭和30年の音楽番組で歌われたのが最初だそうです。その後、合唱の曲として世に広がり、ボニージャックスなどもレコーディングしました。

作詞は、詩人・作家のサトウハチローで、彼の作品には他に「お山の杉の子」「うれしいひな祭り」などがあります。

一方の作曲は、中田喜直。「めだかの学校」「雪の降る街を」「かわいいかくれんぼ」「夏の思い出」などの名曲を世に送り出した作曲家です。

 

歌詞は下記の通りですが、

   2番の 「お部屋は北向き くもりのガラス うつろな目の色 とかしたミルク」や、

   3番の 「むかしのむかしの 風見の鳥の ぼやけた鶏冠に はぜの葉ひとつ」

など、意味やシチュエーションが判然としない箇所があります。 

作詞したサトウハチローはこの歌詩について、こう述べています。 

「原稿用紙を前に布団に腹這いになって外を見ていたら赤くなったハゼの葉を見て言い知れぬ秋を感じて、この歌を書き上げた」

 

自宅の部屋の窓から見える紅葉したハゼの葉や、聞こえてくるモズの鳴き声を題材にしたのでしょうが、読み手側にはピンと来ない詩です。それどころか、「お部屋は北向き」「うつろな目の色」とは何を示唆しているのか? 加えて、むかし「モズが鳴く夜は死人が出る」と信じられていた凶鳥が『呼んでる口笛』として登場するなど、不気味さを感じます。

まあ、作詞者本人は、そこまで深い意味はなく、書いているらしいですが

 

1.だれかさんが だれかさんが
  だれかさんが 見つけた
  小さい秋 小さい秋
  小さい秋 見つけた
   目かくし鬼さん 手のなる方へ
   すましたお耳に かすかにしみた
   呼んでる口笛 もずの声
  小さい秋 小さい秋
  小さい秋 見つけた

2.だれかさんが だれかさんが
  だれかさんが 見つけた
  小さい秋 小さい秋
  小さい秋 見つけた
   お部屋は北向き くもりのガラス
   うつろな目の色 とかしたミルク
   わずかなすきから 秋の風
  小さい秋 小さい秋
  小さい秋 見つけた

3.だれかさんが だれかさんが
  だれかさんが 見つけた
  小さい秋 小さい秋
  小さい秋 見つけた
   むかしのむかしの 風見の鳥の
   ぼやけた鶏冠に はぜの葉ひとつ
   はぜの葉あかくて 入日色
  小さい秋 小さい秋
  小さい秋 見つけた

 

 

 

話題2 「里の秋」異聞

 

今度の出前演奏の唱歌曲の一つになっている「里の秋」。子供の頃から耳にしてきた馴染のある綺麗な曲で、なんとなく、東北地方か信州あたりの、のどかな秋の農村の風景を歌った曲であるような気がします。 

が、本当にそうなのでしょうか? 

たまには楽器を置いて、歌詞をジックリ見てみましょう。

 

「里の秋」  作詞: 斎藤 信夫  作曲: 海沼 実      

 1番  静かな 静かな 里の秋  お背戸に木の実の 落ちる夜は 

    ああ 母さんとただ二人  栗の実 煮てます 囲炉裏端 

 

2番  明るい 明るい 星の空   鳴き 鳴き夜鴨(よがも)の 渡る夜は

    ああ 父さんのあの笑顔   栗の実 食べては 思い出す

 

 2番の歌詞の最後の箇所で、お父さんがそこには居ないことが分かります。何処にいるのでしょう? 出稼ぎに行っているのでしょうか?

(昔の東北や信州地方であればその可能性は充分あります)。それとも既に亡くなったのでしょうか?ちょっと心配になります。

この疑問は、3番の歌詞を読むと解決します。

 

 3番  さよなら さよなら 椰子の島  お舟にゆられて 帰られる 

     ああ 父さんよ 御無事でと   今夜も 母さんと 祈ります

 

  そう、父さんは戦争で南の方の島へ行っているのです。終戦になって戦地から引き揚げてくるのを母さんと待っているのです。戦病死していないことを祈りながら。

  昭和20年に敗戦となり、南方の島々や中国大陸などから、兵隊さんたちが続々と日本に引き揚げてきました。スシ詰めの引き揚げ船に乗り、舞鶴や佐世保などの港に復員してきました。 

 同年12月、日本放送協会(NHK)は、そうした復員者たちを歓迎・慰労する「外地引揚同胞激励の午后」という特別ラジオ番組を放送しました。

その番組の中で、歌手・川田正子によって歌われたのがこの曲です。遠い戦地から夫・父・兄が帰って来るのを待ちわびる気持ちを表したこの歌には、全国の人々から極めて大きな反響があり、翌年から始まったラジオ番組「復員だより()」のテーマ曲としても使われました。

 以後、小学校の音楽の教科書に採用されるなど、国民から永く愛唱され、平成19年には、「日本の歌百選」の中の一曲に選定されました。 

 さて次に、この曲の作詞者である 斎藤信夫[19111987]についてです。

 彼は千葉県の山武郡成東町の出身。千葉師範学校(現、千葉大学教育学部)卒業後、小学校の教員となりました。戦争の気配が一段と濃くなる1940 (昭和15) 年から終戦の年(昭和20年)まで、彼は葛飾町立葛飾尋常小学校に勤務します。

 ちなみに、この葛飾尋常小学校とは、現在の船橋市立葛飾小学校のことです。当時は、今のJR西船橋駅と北側ロータリーのある場所が、小学校の校舎と運動場でした。昭和34年に現在の船橋市印内一丁目(京成・西船駅の北側)に移転しました。

 彼は、小学校で教鞭を取りながらも詩作を独学し、多くの作品を雑誌に投稿していきました。その内の一つが、後に「里の秋」の歌詞として採用されることになる作品で、真珠湾攻撃の直後の昭和1612月に作られました。

ということは、「里の秋」の歌詞は斎藤信夫が「葛飾尋常小学校」の教諭をしている時に作られているわけです。そうであれば、

 静かな静かな 里の秋  の「里」とは、何処をイメージしたものなのか?

・・・それは、彼の生れ故郷の山武郡成東かもしれないし、職場である葛飾尋常小学校に通える範囲の場所(現在の西船橋駅の周辺か?)かもしれませんが、いずれにしても、千葉県内だと考えて良さそうです。つい我々が想像しがちな「東北か信州あたり」ではないのです、多分。

どうですか、「里の秋」の楽譜が、これまでとはチョット違って見えてきませんか?

 

注:『復員だより』は、外地からの引き揚げ船の入港予定や、乗船者の告知、各地に残留している同胞の状況などの情報を、まとめて放送する番組。併せて『尋ね人』という番組も放送された。これは個人についての消息を尋ねる番組。肉親や知人の消息を知りたい、留守家族に消息を伝えたいという手紙が続々と寄せられた。番組開始から3年間に取り上げた依頼総数は19515件。このうち、3分の1の消息が判明した。(以上、NHKアーカイブスより)

 

 

 

話題1《 曲目情報 》

 

新しい曲についての簡単な説明です。練習時のご参考にしてください。

 

 【ブラジル(Brasil)】

作詞作曲は、ブラジルの国民的作曲家として知られる、アリ・バホーゾ(Ary Barroso)。1939(昭和14)年に書かれた曲です。バホーゾは数多くのサンバを作曲していますが、この曲は最も有名でブラジル国民からも愛され「もう一つの国歌」とされています。歌詞(一部)は、次のような意味らしいです。

 

『・・・ブラジル、体躍るサンバ、ステップ弾むサンバ 我が愛するブラジル 主なる神の国、ブラジル、我がブラジル!・・・』

 

曲名は、日本では「ブラジル」というタイトルで知られていますが、本来は「Aquarela do Brasil」(ポルトガル語で「ブラジルの水彩画」の意)です。

この曲が世界中で知られるキッカケとなったのが、作曲から2年後の1942年に、ウォルト・ディズニーのアニメーション「ラテン・アメリカの旅」の中で使われたことで、以後、多くの人や楽団によって、演奏されてきました。日本では、1996年のサントリー・リザーブのCM(佐藤浩市が出演)にも使われていました。

 

【キャラバン(Caravan)】

1935(昭和10)年の作品。作曲は「A列車で行こう」など多くのジャズの作曲で知られるアメリカ人のデューク・エリントンと、プエルトリコ出身でエリントン楽団のトロンボーン奏者であるファン・ティゾール。非西洋的な音階を取り入れたメロディと、4ビートに準拠しない激しいリズムが特徴で、アフロ・キューバン・ジャズの代表曲とされるそうです(以上wikiによる)。

エリントン自身にとってもお気に入りの曲だったようで、同楽団の十八番のナンバーでもあり、何度もレコード録音されています。

なお、「Caravan」とは、砂漠をラクダなどの荷を積んで、隊を組んで移動する商人の一団(隊商)のこと。これをイメージした曲ですので、異国情緒溢れる印象を受けます。

 ちなみに

「私の音楽に対する勉強は、(G)と(F)の違いを学んだことから始まった」

とは、デューク・エリントンの有名な言葉だそうです。

そう言えば、指揮者O先生も「ダブルシャープの説明」の際に、(G)と(F)の違いに言及されていましたね。

 

 

【花のワルツ】

ロシアの大作曲家チャイコフスキーのバレエ音楽「くるみ割り人形(The Nut-cracker)」の中の1曲。

 「くるみ割り人形」は、チャイコフスキーの「三大バレエ」の一つで、23場により成る作品です(あとの2つは、白鳥の湖と眠れる森の美女)。1892年に初演されました。

このバレエで使われる音楽の中から8曲を選んで一塊としたのが組曲「くるみ割り人形」で、「花のワルツ」は、その最後の曲(8番目)となっています。ただし、バレエ全体の中では最後の曲ではなく、第2幕の後半に位置していて、女王の侍女たちが華麗に踊る場面でこの曲が流れます。

音楽とはあまり関係ありませんが、念のため付言すると、「くるみ割り人形」とは、クルミの殻を割る道具で、人形の形(多くはフランスまたはロシアの兵隊の姿)をしていて、人形の口の中にクルミを置き、背中側のレバーを押下するなどして砕く仕組みになっています。

 バレエ「くるみ割り人形」の物語は、ホフマン(ドイツの幻想的文学作家)のお伽話「くるみ割り人形と二十日ネズミの王様」を基にしていて、あらすじ は、ざっと以下の通りです。

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クリスマス・イブの夜に、少女クララの家でパーティーが行われている。クララが名付け親でもあるドレッセルマイヤーじいさんからクリスマスの贈り物として、くるみ割り人形を貰う。ところが、子供たちの間で取り合いになり、はずみで人形を壊してしまう。しかし、ドロッセルマイヤーじいさんが修理してくれる。パーティーは終わり、来客は子供たちと家路につく。

 その夜のこと、みんなが寝静まってから、クララは忍び足で、くるみ割り人形が置いてある部屋にやって来る。突然、柱の時計の鐘が12時を告げる。すると、クリスマスツリーがスルスルと伸びて巨木になる(=クララの体が人形の大きさまで小さくなる。この辺は、不思議の国のアリスに似ている)。驚くクララ。

そこに、ネズミの大群が押し寄せ、走り回る。お菓子の中からは人形の兵隊たちが出てくる。ネズミたちにはネズミの王様がいて、一方のおもちゃの兵隊の指揮官は、くるみ割り人形である。1発の銃声から両者の間で激しい戦闘が始まる。戦況は次第におもちゃの人形側が不利になっていく。やがて、くるみ割り人形とネズミの王様の一騎打ちとなり、くるみ割り人形が危なくなる。そこでクララがネズミの王様にスリッパを投げつけ、ネズミたちを追い払う。

救われたくるみ割り人形は美しい王子になる。お菓子の国の王子は、生れてすぐに呪われて、くるみ割り人形の姿にされていたのだった。クララの力で人間に戻った王子は、クララをお菓子の国に連れて行く。

  雪の中を飛ぶようにしてお菓子の国に到着し、王子はクララを女王(こんぺいとうの精)に紹介する。饗宴が始まり様々な踊りが披露される(「花のワルツ」はこの辺り)。クララはお菓子の国の人たちから祝福され、2人は結婚する。おしまい。